諏訪部 佐代子(SUWABE Sayoko)

大学院生/画家

WEB:https://www.sayokosuwabes.com/

プロフィール

2015-2019 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻

2019- 東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻

2022 メルボルン大学美術研究科 ヴィクトリアンカレッジオブアーツ 交換留学

絵画作品のほか、インスタレーションを主軸として、パフォーマンスや彫刻など幅広いメディアで問いかけている。

今、何をしていますか?

今、オーストラリアに留学しています。

大学に行く半年を終えて、そのあとは、作品制作や仕事などをしながらオーストラリアのアーティストコレクティブでインターンシップをしています。

2017年から交換留学に来たいと計画していて、2020年にオーストラリアへ来るつもりが、感染症拡大の影響でオーストラリアの国境が閉じてしまい、3期ほど交換留学が延期しました。その度に学期を延長するべきか悩んで悩んで、ようやく国境が開いた2022年2月21日にオーストラリアへ来られた!という感じ。

交換留学の奨学金が在学中でないともらえないため、アルバイトやアートプロジェクトを日本でしながら最後の最後まで粘って学生で居続けさせてもらい、今に至ります。

学生であることは権利だと思っています。交換留学生だからこそアクセスできる資料や体験がどうしても欲しかったのです。最終的にオーストラリアへ来ることができて、待っていた時間は無駄じゃなかったとようやく思えるようになりました。

留学する前はどんなことを考えていましたか?

留学に行けなかったコロナ中は、自分のネガティブな部分をめちゃくちゃ見つける機会になりました。元々続けていた日記とは別に、その日に絶望したことを置いていこうと、絶望ノートと希望ノートというのを書きはじめました。

最初はとにかく行きたかったところに行けない絶望感が強く、絶望ノートを書いていたのですが、担当教授や友人に、それより希望ノートを始めた方がいい!と明るく言われて新しくノートをつくりました。今日は西日がきれいだった!とか、ちゃんと上着を掛けた!とかそういう小さなことを書いていくノート。オーストラリアでも続けています。

就職をするかどうするかも一時は迷いました。定期収入が無いと生きていけないので…。就活も一度真剣に考えて、髪も黒くして、写真もとって、履歴書も埋めて、会社も調べて。でも、失礼だなと思っちゃったんですよね。会社のことを一番に考えられないのに、入っていいんだろうか、って。留学もしたいと思っていたわけだし。週5で働くと、制作の時間も取れないし、時間を取って海外に学びに行くことも難しいし。だから考えに考えきってやめました。

同じように留学が延期になっていた君島と、荷物をおく場所としてNULLNULL STUDIOの構想が始まりました。そのうちに、絵も描けたらいいじゃんってことになって、スタジオ兼展示スペースになっています。自分たちのベースになる場所、自分たちのたつ地面がある場所ということは大きかったです。おかげさまで取手VIVAでプロジェクトをやる機会もいただけました。

なぜオーストラリアに?

オーストラリアに来たのは、もともと哲学の本や評論文を読むのが好きで、そのなかで出会ったとある先住民部族の考え方に惹かれたことがきっかけです。

過去とか未来とか昨日とか明日はなくて、先祖や子孫はみんないっしょくたになって、今という時間だけに漂って生きているという考え方。私も昔から似たことを考えることがあって、それってけっこう真理に近いんじゃないかと思って惹かれました。

自分っていう存在が部族と同一化している、というのもあって。それを聞くと、自分のアイデンティティって何だろう、ってなるじゃないですか。そういうところに刺激をもらいながら制作をしたりしています。

あと、教育と社会と芸術がすごく近くて柔軟だなと思っていて。アートの敷居が高くなくて、人とアーティストがすごく近い位置にいる、その現場を見てみたいなと思いました。今お仕事をさせていただいているアーティストコレクティブで、そういった学びたかったことを学んでいます。

キャリアということについてどのように考えていますか?

自分の人生については、自分が心に響く何か言葉が欲しくて人に助けを求めるとか、限られたタイミングのなかで、悩めることは悩み切っています。そのたびにノートに書きだすとか。「アーティストのためのハンドブック」が高校生の時からのバイブルです。

数年前、not for saleと題して、どうやってアーティストとして生きていったらいいかを、周りの人たちと会話する中で見つけていこうというプロジェクトをしたんです。それを発展させる形で、最近、ドイツの現代アートの祭典「ドクメンタ15」のサマースクールで、海外の大学院生や博士の学生に対してワークショップをしました。参加者の特技を他者から評価してもらう、っていうことをして。結構面白い会話になって、すごくいい経験になりました。

天邪鬼なんですよね、反対されるとやりたくなっちゃうから、こうなっちゃったって感じ。ある景色を目指して山に登るということができない。だから、先が見きれないこの道を選んだのは必然だったのかなと思います。自分がやりたいことはどう生きたって決まってるので、一つずつやりきっていきたいです。

これからどうしていきたいですか?

アイデアはいっぱいあって、自分が作りたいものにずっとワクワクする人生を送りたいなと思っています。何かものと出会った時に起こる化学反応みたいなもの、考えの転回を制作と展示の中でずっと求めている気がします。私だけでなくそれが誰かの転回に繋がってくれたら、作家としてそれ以上のことはないと思います。最初の2~3年は海外と日本を行き来しながら制作していきたいです。

私の美術の原点は子供の時から習っていた現代芸術家の先生。
もう亡くなっちゃいましたけど。私に人を驚かせるような変なものを作りなさいといつも話していた先生でした。
私もいつか子どもたちに、こんな適当な変な大人がいていいんだと思ってもらえるような、そんな存在になりたいですね。

NULLNULL STUDIO

君島英樹と諏訪部佐代子によるアーティストコレクティブであり、共同のスタジオ兼展示スペース。

ACCESS:茨城県取手市井野1-7-7サンハイツ取手101

     取手駅徒歩10分(ピンクのカーテンが目印)

  

君島英樹(KIMISHIMA Hideki)

図工・美術非常勤講師/画家

WEB:https://www.kimi-artwork.com/

プロフィール

1995年生まれ 神奈川県茅ヶ崎市出身

2015.04  東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻入学

2019.04  同大学院美術研究科油画専攻(壁画分野)入学。2022.03 同大学大学院 壁画第二研究室修士課程修士課程 修了

2021年2月に茨城県取手市にNULLNULL STUDIO(共同アトリエ)をオープンし、現在、取手市を拠点に、都内で多くの展示に参加中。

茨城県内の中等教育学校にて、非常勤講師として図工・美術を教えている。

どうして先生になったのでしょうか?

制作がしたくて修士に進んだ後、生きていくうえでお金どうすりゃいいんだろうと思って。でも朝から晩まで働くって無理だなと思って。非常勤の先生になりました。 

企画で知り合った人でもともと教員だった方がいて、「教員やりたいんすよ」、と話していたらだんだん本当になったんです。「やるならやるでしょ」と、県の教育委員会に書類を持って連れていかれました。「郵送で良かったんですけどね」とか言われましたけど。(笑)

働いているのは週3日ですね。全然制作できないな、とは思います。自分で全部準備しないといけないし、成績もつけないといけないし。よりよい美術室にしたいし。なかなか難しい。

でも、教員をやり始めて、興味のない児童、生徒たちにどう、美術をするうえで大事なことを伝えられるかな、というのを意識するようになりました。今は「観察をしよう」ということを伝えてます。どうものをみて表現するか考えさせるとか、早く終わらせてしまう子なんかはどんなところにこだわりがあるかなんか尋ねるようにしています。

美術の道に進もうと思ったのはなぜですか?

高校の美術の先生にお世話になって、僕もこうなりたいと思ったことで美術の先生を目指しました。

運よく東京藝大に受かって、、美術の先生を目指して、大学4年時に教育実習に行きました。でも、そこで先生の理想と現実を目にして、疑問を感じたところがあって。考えたら先生って、20代前半で卒業してなるんですよね。それでほんとに指導できるのかな…と。教えられるようになるように、社会をもっと知っておきたいと思いました。

ちょうど同じころ、作品制作もやりたくなってきて、大学院に進みました。

NULLNULL STUDIOを作ったのは自身にとってどんな経験でしたか?

中国留学を計画していたところ、感染症が流行してしまい、延期になってしまい、休学中どこで制作するかと思って、友人と共に、NULLNULL STUDIOという、スタジオ兼展示スペースを作る計画がうまれました。スタジオをつくったのはお互いにとって大きかったです。いつでも制作できる環境があるのは大きいと思います。

かなりの数、物件を内見に行きました。いい場所を見つけたけど持ち主が分からなくて法務局へ行ったりもしました。一から壁を立てるというのがいい経験になったと思います。

内装を自分たちで、施工してもいいと言ってくれる賃貸なんて、なかなかないですよね。借りたときは大家さんが直接管理している建物で、おばあちゃんがオーナーでほんとに感謝しています。残念ながらオーナーさんが代わり今は不動産が仲介するようになりました。今は、不動産屋が仲介してます。

自分たちで空間を作り直すっていうのはある種アーティストにとって必要なことだなと思いますね。作品づくりでの素材選びじゃないですけど、壁を立てる上でどういう素材が必要なのかとか、工具とか、ネジとか椅子とか… そういういままでずって適当にやってたものがやっと理解できたというか。

今後どうしていきたいですか?

まずは、コロナで行けなかった中国留学かな。学校を急にはやめられないけど。

去年1年、授業準備に時間を費やしてしまったので、制作する時間を確保したいですね。ストレスなく価値ある仕事にしないとなと思っています。何はともあれ楽しく仕事したいな(笑)

将来的には自分でななにか起こしたいな、と思ってます。展示しているかは分かんないですけど。40~50歳とかになったら、カフェ兼ギャラリーみたいな、自分の場所を持っていたいです。

優柔不断で締切り30分前まで悩んでいるタイプなんですけど、段々と知り合うジャンルや人が増え、相談できる相手やイメージが広がって、大人になったな、と思います。

NULLNULL STUDIO

君島英樹と諏訪部佐代子によるアーティストコレクティブであり、共同のスタジオ兼展示スペース。

ACCESS:茨城県取手市井野1-7-7サンハイツ取手101

     取手駅徒歩10分(ピンクのカーテンが目印)

新野 将之(NINO Masayuki)さん

打楽器奏者/アウトリーチ

プロフィール

昭和64年生まれ。埼玉県出身。15歳の時に打楽器と出会う。

国立音楽大学打楽器科を首席で卒業し、矢田部賞を受賞。読売新人演奏会に出演。
イタリア国際打楽器コンクール、JEJU国際金管打楽器コンクール、日本国際打楽器コンクールの全てにおいて最高位を受賞。その他にも受賞暦多数。

Black Swamp Percussion社・Thunderbolt percussion社エンドーサーアーティスト。東京コンサーツ所属アーティスト。地域創造公共ホール音楽活性化事業登録アーティスト(おんかつアーティスト)。その他、各種協演や、アンサンブルグループ活動、ソロCDのリリース、ソロリサイタルなど、数多くの舞台で活躍している。

大学を卒業してから、どのように活動を展開したのでしょうか?

大学卒業した辺りは仕事がなくて、いろんなバイトを掛け持ちして練習してっていう生活が、26、27歳くらいまで続いていました。

関わる演奏会は全部自主企画で、ホールを予約して雑務も一人でこなしてやっていました。友達とグループを組んで企画して、客席はみんな身内だったりしました。

コンクールでは引っ掛かることも多くて技術的なものは身に付いてきていたと思いますが、全然仕事には結びつきませんでした。なんで実力があるのに仕事が来ないんだろうって思っていました。

そんな時、バイト先にベンチャー会社の社長みたいな人が来て、「一銭にもならないなんて、誰にも貢献できていないってことだよ」と言われたんです。そこから、自分の技術をどうやって社会に還元していけばいいんだろう、という発想に切り替わりました。

なぜ今のお仕事に?

地域創造というのを見つけて、おんかつというアウトリーチプログラムのオーディションを受けてみました。それがぼくの第一歩でした。

それまで仕事と言うと、依頼されて引き受けて行くというイメージだったんですけれども、アウトリーチでは現地の先生や担当の方と話し合って、プログラムを作っていけます。

それはかなりボクに向いていて、「自分のやってきたことが社会に還元されているなあ」と感じられて、やりがいがあります。

最近では、アウトリーチにはまりすぎて、本当のリサイタルの時に、バランス感覚で悩むこともあります(笑)分かりやすくするとエンタメの方向に寄っていきやすいですが、主軸はアートでありたいなと思っているので、そのバランスを保つのが難しいところですね。

やりたいことと社会が求めていることの重なる点を見つけるのがアウトリーチなんだと思います。すごい前衛的なパフォーマンスでも、じゃあこれを、一般の子供たちにどう見せようかと考えるのは大事です。

将来的にギャラリーやホールに来てくれる子がいるかもしれない種をまきながら、自分のしている音楽が、どう社会で重要かを落とし込めたらいいんじゃないかなと思います。

※おんかつ…市町村等の公共ホールに、演奏家とコーディネーターを派遣し、コンサートとアクティビティ、演奏交流プログラムを実施する事業。

活動が広がり始めたきっかけ

少しずつ少しずつ、「あのコンサート聞いたよ」とお声がけ頂いたりして、広がっていったように思います。すぐには結果にはならないので、ネチネチと「ここにいるよ」とやらないと認知されないです。

自分の場合、自費で、エンジニアさんに持ち込みでCDを出させてもらったことが、一つのきっかけにはなりました。

レコード芸術史という雑誌でいい評価を頂いて、ラジオのお話を頂いたりとか、
CDを名刺代わりにあげたら、聴いてくれた人がコンサートを依頼してくれたりとか…
そうして覚えてもらうことで、活動が広がりました。

その後、おんかつアーティストにもなって、方向性が見え出しました。
今では、事務所に所属しており、事務所が仕事を持って来てくれたり、自分のところへ依頼が着たり、仕事の形態は様々です。

多い時は毎週違うコンサートに出ていたりします。金銭面的にも、やっと生活できるくらいまで来たな、と感じています。

今後について考えることを教えてください。

海外公演を増やしていきたいです。実はオファーを頂けそうだったところに、コロナ禍になり、なくなってしまったのです。

自分の活動として、教育や文化を広めていくという主軸と、アーティストとして国際的にやっていきたいという両方の側面があります。演奏を通して社会に貢献していきながら、活動をどっちにも伸ばしていきたいというのが、これからの展望です。

キャリアを振り返って、後輩たちに伝えたいことを教えてください。

いろんなキャリアの形があるから一概にこれがいいとは言えないけど、一つ言えるのはやめないことですね。10年続けたらきっと何かになると思うけど、それまでに見切りをつけてしまう人が多いと思います。

続けてさえいれば、意欲的な活動であればなんでもプラスに働くと思います。
生活との両立が難しいですね。そこを何とかする方法を見つけられるといいです。一回就職してお金をためてから活動を始めるというのも選択肢としてありだと思います。

大学卒業後、先が見えない不安があるから大学院に言ったり留学したり、社会に出るのを先延ばしにしたり、いろいろな選択肢があると思います。
何をするにしても、社会に出たときに何ができるか考えたときに、実力を身に付けておくとか、何かしらの方向性を持っておくことは大切なんじゃないかな、と思います。
いろんなものに触れて、何が向いているかを考えて、最終的に自分の適性を見定めてやっていくのがいいんじゃないかな、と。

漆畑 萌里(URUSHIBATA Moeri)さん

放送ディレクター/声楽家

〇プロフィール

東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。
第69回全日本学生音楽コンクール声楽部門高校の部東京本選3位、全国大会入選。
第9回東京国際声楽コンクール高校生部門準優勝。
ミュージカル演出を東京芸術劇場、練馬文化センターにて上演。
現在は音楽番組制作に携わっている。

〇現在、何をしていますか?

放送会社で音楽番組のディレクターをしています。

ディレクターはいわば何でも屋さん。企画立案から、キャスティング、演出、現場での指示出しなど、番組ができるまでのすべての過程を見守ります。放送当日が近くなると、どういう動線でアーティストを招くか、演出はどうするか、画角はどうするか、出演者にどんなことを 話してもらうかなども具体的に決めていきます。

まだ入ったばかりなので、現場で信頼されるフロアディレクターになれるよう日々頑張っています。

〇歌を始めたきっかけを教えてください。

小3の時に当時習い事で通っていた音楽教室が開催のこどもオペラに参加しました。その時、舞台に出演する喜びややりがい感じ、小4から声楽を始めました。こどもオペラにも小3・小6・中3と連続して出演しました。

中3で出演したこどもオペラの本番、役を演じた際に客席のお客様が笑顔になっている様子を見て、

歌で人をもっと喜ばせたい、音楽をより専門的に勉強したい

と思ったのです。そこで、藝大受験を決めました。

大学では、全国から集まってきた芸大生のレベルの高さや勉強へのモチベーションに、多くの刺激を受けました。

〇なぜ今のお仕事に?

大学3年生の秋ごろまでは、プレイヤー(演奏家)になりたいと考えていました。

しかし、大学に入ってすぐに、コンサートで満席にすることの難しさや、演奏家のみで生計を立てることの厳しさに気づいてもいました。また、日本の文化的な水準を上げるためには、演奏家の研鑚だけでなく、

より多くの人に芸術の魅力を伝える企画を作ることや、芸術で生計を立てられる人を増やすための制度を充実させること

も必要ではないかと考えました。

そこで、プレイヤーだけではなく、企画の立案から制作までのプロセスを知ろうと、とにかくいろんな企画に関わり自分の適性を見極めました。音楽から離れてプログラミングやWebマーケティングの勉強に挑戦したこともありました。

結果、一人で歌の技術を磨くよりも人と協力して音楽に関わる仕事をして、

芸術家がより豊かに自己表現を続けていけるための土台作りや企画者として、音楽の発信に携わりたい

と考えるようになりました。

就職する際には企業理念と価値観がより合っている会社を検討しました。音楽系の制作といっても、レコード会社や舞台、映画、テレビなど媒体の数だけ選択肢がありますが、今の会社は興味のある企画に制作として深く携われることに魅力を感じたので、志望しました。

〇キャリア選択を振り返って思うことがあれば教えてください。

音楽業界の中で、どの役割で活動するのが、業界にとっても自分にとっても最善なのか、考えることを意識していました。

プレイヤーになって芸術を深める人になるのか、より多くの人に音楽の魅力を知ってもらえるような企画を考える人になるのか、先生になって学校で音楽を教えるのか…
音楽の世界で働くといっても選択は様々です。

自分のポテンシャルと、指向性を見極めるためにどんなことでも行動に移すことが大事だと思います。私は、より門戸を開いて音楽の魅力を伝えられる人になりたいと思ったので、この選択をしてよかったです。

〇今後について考えることを教えてください。

私の中で、舞台が好きというのは揺るがない事実です。今携わっている音楽番組では、舞台監督とメインの演出を経験してみたいと思っています。

転勤もあるので、例えば沖縄の琉球音楽のような地域に伝わる伝統音楽を知り、その地域での音楽の届け方なども考えていきたいです。

将来的には、舞台芸術に興味を持っていただけるような番組や、舞台企画をしてみたいです。

南雲 由子(NAGUMO Yuko)さん

アーティスト / 区議会議員

WEB:yukonagumo.net

〇プロフィール

1983年 板橋区生まれ。

山野美容芸術短大にて美容師資格取得後、東京藝術大学 先端芸術表現科に進む。

「ノッキング・オン・ヘブンズドア」(2007, 大阪アートカレイドスコープ)、「Scrap and Bride」(2009, 越後妻有トリエンナーレ)などの作品を発表。

東京大学大学院にて文化政策を研究。2015年から板橋区議会議員。

〇現在、何をしていますか?

5歳の息子の子育てをしながら、

板橋区議会議員の仕事と、デザインとまちづくりの合同会社をやっています。

〇大学時代にはどんなことに興味を持っていましたか?

アーティストとして参加型のプロジェクト作品を作りながら、アーティストがどう活動を継続できるのか、ということにも興味がありました。

修士のころは、アーティスト自身がスペースの運営を担う、いわゆる「アーティストラン」の活動が多かった1960年代のカナダについてリサーチをしたり、韓国や日本での事例を見たりしました。

スペースを持っている人・スペース同士をつなぐメディア・アーティストラン同士の交流・資金について、身体と血液と血管と栄養の4つの要素に分け、4つがあれば継続できるのではないかという仮説を立てて、論文を書きました。

〇なぜ政治家に?

2011年の震災後、特に「社会」について考えるようになりました。

私は社会状況に対して、アーティストとして何ができるのだろうか、と考えるようになりました。

身近な人を見ているとデモに参加している人も多く、政治への関心が高まっているように感じていました。ところが、2012年の選挙結果をみてみると、すごく投票率が低くて…

友人と飲みながら開票速報を見ていたんですが、衝撃を受けましたね。投票率が低かった理由を考えてみたんですが、それはつまり政治が売れていないということですよね。中身が悪いか売り方が悪いか、どちらかなのだろうと思い、様々な候補者の広報を手伝い始めました。

アートプロジェクトに関わることも多かったので、地域に住む方と関係を築いたり、ボランティアスタッフと協働する経験が役に立ちました。そうして、お手伝いと自分の活動を並行で続ける時期が、何年か続きました。

地元で選挙に出てくれそうな人の説得を試みた時期もあるのですが、うまくいかず…。最後はコップの水が溢れたような感じでした。ある日朝起きたら、すごく腹が立っていたんです。社会のような大きなものに対して、です。

結局、自分で選挙に出ることに決めました。はじめは、アーティストだということを徹底的に隠して活動していました。現在は、政治の側からアーティストに扉を開けて、招き入れるようなイメージを持ちつつ活動しています。

〇キャリアについて考えること、活動してきたこと

行政が支える芸術祭に参加してアーティストとして作品をつくるとき、大切な税金を使っていることの意味を考えて、税金じゃない財源から活動をつくることはできないのかな、と思うこともありました。

そこで補助金を使わずに自分の拠点を作って、せめて家賃分だけでも払うことができないかなと考えて、大学の仲間と、実験的に『time spot』というスペースの運営を始めました。

7年目には家賃を払えるようになり、デザインとイベントを事業の軸にした合同会社を作り…運営に携わるメンバーも入れ替わりつつ、他の活動もしながら続けてきて、今年11年目になりました。

〇今後について考えることを教えてください。

アートで培った、街を観察する中で社会課題や面白みを見つける力を生かしながら、区議会議員として仕事をしていきたいと思います。

一方で、政治の世界で活動していて感じたのは、アートの言葉を翻訳する人を増やす必要があるな、ということです。

アートの価値を、行政の職員さんが使っている言葉にして伝えられる人が増えたら、もう少し活動がしやすくなるのではないかと思います。

実践として、『文化芸術振興自治体議員連盟』(アーツ議連)を2021年5月に立ち上げました。

まだこれからですが、仲間と共に政治とアートの関係を探り、テキストとしても残していきたいなと考えています。

会社員(音楽業界)/鍵盤奏者

プロフィール

1998年 奈良県生まれ。
2022年3月 東京藝術大学音楽環境創造科 卒業。

在学中からその後現在にかけて、レコード会社等で働きながら、ヒルネ逃避行でのバンド活動、その他演奏活動を精力的に行う。

現在、何をしていますか?

レコード会社で音楽の制作や宣伝周りの仕事をしています。
仕事と並行して、「ヒルネ逃避行」というバンドに、キーボード担当で参加しています。

今の業界に入ったきっかけを教えてください。

音楽専攻だったこともあり、もともとPAのアルバイトをしていました。

2年生の時に研究室のメーリングリストで流れてきた、音環の先輩が立ち上げたライブハウス・アイドル現場のPAの募集に応募したのが、ある意味、今の業界の仕事につながる最初のきっかけですね。

PA以外にもピアノ演奏や仮歌、楽曲提供などを任せていただけることが徐々に増えていき、だんだん”仕事”っぽくなっていった感じです。

なぜ今のお仕事に?

バイトをきっかけに、学生のうちから色んな現場や仕事があるのを知っていきました。

その経験を踏まえて、様々なジャンルの音楽を取り扱っているレコード会社を中心に、音楽業界で働くことを目指して、就活したりしました。

でも、そもそも新卒採用がなかなかない業界だし、コロナの影響もあり、もう1年大学生をしながらよく考えることに決めました。

今までを振り返って思うことがあれば教えてください。

自分はどちらかというとゼネラリストで研究者タイプじゃないなと分かっていたし、就職するだろうな、とは、入学する前から思ってました。

(いわゆる就活らしい)就活は完璧にはできませんでしたが、バイトきっかけの仕事を通じてほかの会社の人に出会ったり、現場でアーティストに顔を覚えてもらったり、結果として就職につながる行動は結構していましたね。

キャリアのことを考えてそうしたっていうより、自然とそうなったというか…。自分ができるPAのことをしたり、演奏は好きだからピアノ伴奏を引き受けたり、そもそも音楽が好きだから仕事を続けたりして、結果としてこうなっている、という感じです。

学生時代は、行動はバタバタと迷走したこともあるけど、気持ちに迷いはなかったと思います。

キャリアについて考えることを教えてください。

(例えば、)公務員は比較的安定していて安心だと思うけど想像がつかないとか、
先生には憧れるけど向いてないなとか、
自分に向いてないのを省いていって、でも、絶対に譲りたくないところ、私で言う「音楽の仕事をする」ということの中でできることを選んできた感じですかね。

個人として、会社以外の人とも人脈をつくり、働く選択肢を持っておくことが、今の時代で音楽の仕事を続けるには重要かなと思って頑張っています。

研究者/アーティスト/大学非常勤講師

取手校地30周年記念展

プロフィール

1994年東京生まれ。2016年に米国・カリフォルニア大学デーヴィス校農業環境科学部国際農業開発専攻・文理学部美術史専攻(二重専攻)卒業。

都内でメーカー勤務を経て、2019年に東京芸術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻入学、2021年に同修士課程修了。

その後は東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科特任助手を経て、現在は非常勤講師。

現在、何をしていますか?

大学院で、文化庁から受託したプロジェクトの特任助手という役職にあった…のですが、今年度の事業について、年度が始まる1週間前に事業全体の不採択が通達されショック!その後、今は非常勤講師として働いています。

これとは別にありがたいことに、自分が究めている地域の研究を、地元の方やほかの地域でも、発表する機会を設けてもらっています。ありがたいことですね。大学で務めていたような役職があるわけではないですが、これも何かより大きな動きの「助手」と呼べるかもしれません。

また、知り合いからの日英翻訳、通訳の仕事をいただいたり、進路・プレゼン・ライティングの指導をしたり、知り合いの農家や農業大学校のお助けをしたりもしています。お代(やお米やお野菜)をいただきながら勉強させてもらっています。

キャリアについて考えることを教えてください。

「安定したキャリアほど良いものはない」と長らく信じ込まされていた気がします。

しかし、いざ目の前の将来が見えなくなると、急に感覚が研ぎ澄まされるのが分かります。その生きている実感がたまらないですね。

キャリアは、合理的な意味では、人間社会において生命維持のために必要なものなのだと思います。しかし、自分にとっては、「ページをめくった先でストーリーがどう展開するかのワクワク感」がキャリアの本体なのだと思っています。

こう思えるのは、今までの実績や経験が自信というかたちをとって陰で後押ししてくれているからでしょうか。

ただ、自分の力でより強く漕ぎ続けなければ、いずれ流れに負けてしまいます。どこかで現状に甘んじようとする気持ちへの警戒心は強く持っていたいと思います。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

美術史専攻の学部を卒業後、会社員を2年半やっていました。ある時、上司の上司に当たる方が面談の場で、
「君はあと5年したら先輩の彼みたいになり、10年したら課長の彼になり、20年したら部長の彼になるかもしれない…」
と、自分がどういうかたちで昇進してゆくのか、とても具体的に例示してくれました。

励ましのつもりでおっしゃってくれたのは間違いなく、今でもありがたいお言葉だと思います。しかし、それまで自分が会社のためにと暗中模索していた中で、急に目先の道筋がパッと誘導灯のように照らされた時、なんだか急に冷めていくので、自分でもびっくりしました。

その頃私は会社の労働組合委員もしていて、たまたまとある社内方針をめぐって対立があったため、組合の本部と職場の事務所を行き来していました。そんなある日の特急車内で、クイズ感覚で芸大の入試問題を解いてみようと思ってふと調べてみたのです。そしたら、とても面白そうな大学院の専攻を見つけてしまい…、その勢いで出願手続きをしました。

後日談ですが、合格発表の日、自分が受かったことを確認した後に向かった工場では、職場委員は徹底抗戦すると伝えてくれました。これはもう職場の仲間たちのために、大学院入学のために辞める前提で矢面に立とう、そう決意したのでした。

大学院では、郊外というよりもはや農村地帯の中の山に隠されたようなキャンパスに通うことになりました。そこで、なぜこの辺鄙な場所にキャンパスがあるのか、それをまず知ったうえで、色々な表現を試してみようと思いました。4月入学でゴールデンウィークくらいには判るだろう、作品作りはそれからだ、と。

結局のところ、今でも自分は、「なぜその場所にキャンパスがあるのか」を、調べ続けています。そこに訪れた学生や教職員誰しもが疑問に思っているはずで、このテーマに興味を持ってくれる方も多いです。そのうちの誰かは既に調べあげて発表しているだろうと未だに思っているのですが…、まだ見つけられていません。

キャンパスと周辺地区にまつわる語られてこなかった歴史を作る試みが、修了制作と論文になりました。修士の2年目で発生したコロナ禍では、郊外のキャンパスと周辺地区について、ネット上にある新聞記事をはじめとした記述をまとめました。調べた内容は大学史にも載っていない(載せていない、が正確と後から知りました)ので、まずは学生を終えるというタイミングで一旦世間に出しました。まだこの活動は続けてゆくつもりです。

これからどうしていきたいですか。

この問いへの答えをあまり言葉にして定めたくはないですが、あえて言うならということで話させてもらいます。

かつて会社員時代、自分が卒業した高校の後輩に、「あなたは今の会社にいては勿体ないですよ」と言われ、衝撃を受けたあまりに返す言葉を失ったことがありました。

その後輩は当時高校生でまだ大学に行ってすらなく、なんと生意気で大胆な発言だっただろうと今でも思いますが、その人にはそう見えたのでしょう。自分に続く人に同じような発言をまたされないように、「生き方を見せないといけない」、という自負を持っています。

ドラマー

プロフィール

1983年生まれ。
2005年に日大の芸術学部を卒業した後、高校時代にはまだなかった藝大音楽環境創造科に学部から入学。卒業後は、大学院 音楽音響創造科に進学。
菊地成孔のバンド『DCPRG』への参加など、ドラムの演奏活動を行う。
DCRPGの脱退以来は、「割と気ままにドラム叩いています」とのこと。

現在、何をしていますか?

フリーでドラムを叩きつつ音環の助手したり、仏教についての演劇を国内外で行なっていたり、ミャンマーの伝統音楽の研究を科研費*もらってやったりしてます。

*科研費…科学研究費補助金の略称。文部科学省と日本学術振興会による、日本の研究者の自由な研究を発展させることを目的にした助成事業。

大学時代にはどんなことを考えていましたか?

ぼんやりと、「良いドラム叩いて人からそこそこ褒められたい」って思ってました、多分。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

途中で他人からの「いいね!」とかそういったものと、自分が出したい音との間にものすごい乖離が生まれてしまって、それ以来他人の評価はどうでもいいので、少しでももっとリズムに近づきたい、と思うようになりました。

なのでもう自分のドラムが金になんなくてもいいや、というスタンスで生きてます。
幸いにもたまに金になったりしてますが…。

キャリアについて考えることを教えてください。

昨日の自分よりも良いドラマーになること、自分が納得できるドラム叩いて死ぬこと、

それだけです。

これからどうしたいですか?

もっとドラムうまくなりたいです。死なない程度の金とリズムがあれば、もうそれでいいかなって思っています。

アート教室/画家

アトリエコリーヌ:https://atorie-colline.amebaownd.com

プロフィール

2014年 地域新聞社記者
2015年 アトリエコリーヌ始動
2021年 アトリエコリーヌ展示会
     いたばし画廊共同代表

現在、何をしていますか?

2年ほど前から、「アトリエコリーヌ」というアート教室を開いています。

知的障がいがある方もない方も、制作を通してつながり、自分らしくいられる場所を目指しています。

絵は、どのように始めたのでしょうか?

小さいころから絵を描くことが好きで、母がほめてくれたことで自信にもつながりました。オリジナルの絵を描く楽しさを実感したのがその頃だったと思います。

小学生から近所で油絵を習っていましたが、習い事としては特に好きというわけではなかったです。

進学や就職の際はどのように考えていましたか?

私は、美大には結局進みませんでした。成長するにつれ、技術力が求められて、自信がなくなってしまって、ゆるく、好きに続けられたらいいかなと思っていました。

大学卒業後は一般企業に就職して、事務を長くやっていました。当時は、創作をしたい気持ちに蓋をしていたところがあったと思います。

どのように今の活動にたどり着いたのでしょうか?

子育てと仕事の両立で悩んだのがきっかけで、地元の新聞社や区議会議員事務所で働くようになりました。地域で働く中で、パステルアートや臨床美術士という民間の資格を受講していたこともあって、アートを通じて人とつながる機会が増えていきました。

そのうちに、アートの楽しさを一人でも多くの人に伝えたいと思うようになりました。

教室を始める時には、どのように考えていましたか?

初めは、看板を掲げるほどの自信はなかったです。でも、自分らしい活動の時間を持ちたいという気持ちはあり、周りに勧められたのもあって、思い切ってやってみようと思いました。

教室を開く場所や最初の生徒さんとも人づてにつながることができ、最初は月一回くらいのペースで、緩やかに始めました。人のつながりは大事ですね。

これからどうしていきたいですか?

去年、教室メンバーの展示会をやったところ、思いのほかたくさんの方が来てくれました。知的障害の方の作品を観る機会は少ないし、描いている方にも発表の場は大事だと思うので、今後も続けたいと思っています。

障害を持つ方に限られたコミュニティではなく、絵を通してたくさんの人たちがつながって、輪が広がったらいいなと思います。

会社員/作曲家

プロフィール

1995年 埼玉県東松山市生まれ、千葉県柏市育ち
2011年 《作曲の会「Shining」》入会
2012年 高校生作曲集団《Con brio!!》を設立
    高校卒業までに2公演を企画・開催

2014年 東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科 入学
在学中、学内で《専攻外吹奏楽の会》を発足。その他、研究としての作品制作、映像作品への音楽提供、学内外での演奏会企画・開催など積極的に活動。

2018年 エンタメ業界の会社に入社
2018年 21世紀の吹奏楽 第22回“響宴” 入選
2019年 第52回JBA「下谷賞」 受賞
2019年 BS-TBS「土曜デラックス」OP音楽を担当
その後現在にかけて、会社員・作曲家として活動中

現在、何をしていますか?

新卒でエンタメ業界の会社に入社し、採用・社内教育など主に人事関係の仕事をしています。
また、休日など空いた時間で作曲家としても活動しており、主に吹奏楽や管楽アンサンブルの作品を制作しています。そこから派生して、高校の吹奏楽部の指導や、演奏会のプロデュースなども行なっています。

キャリアについて考えることを教えてください。

Web上で様々な投稿・配信方法が発達している現在、その人のバックグラウンドに関わらず誰にでも表現活動のチャンスがあると思います。

また、『二足の草鞋を履く』という言葉には否定的なイメージが付く場合もありますが、これからの時代、草鞋の組み合わせ方がその人の個性として尊重されるようになるのではないでしょうか。

なぜ作曲を始めたのでしょうか?

中学から吹奏楽部で学生指揮を務めていて、それをきっかけに多くのスコア(吹奏楽全体の総譜)を読むようになりました。そのうち自分でも作れるのではないかと考え始め、部内で演奏するための楽譜を書き始めました。

その後、高校1年の時に入会した《作曲の会「Shining」》という作曲家集団で、その当時に大学生・大学院生だった会員から、進路選択やキャリアの考え方について様々な影響を受けました。

大学進学時にはどんな考えを持っていましたか?

当初は、作曲家として活躍することを夢見て東京藝術大学の作曲科を目指し、高校1年から受験に向けた準備を始めました。しかしその後、作曲団体での活動に注力するにつれ、作曲そのものの学習を思うように進められなくなる時期がありました。

そこで改めて自分のやりたいことを整理した結果、『誰かと一緒に何かをプロデュースして、その中のコンテンツの一つとして自分の作品がある状態』を作りたいのだということを漠然ながら考えるようになり、東京藝術大学の音楽環境創造科を目指すこととなりました。

就職する時にはどんな考えを持っていましたか?

高校時代に設立した作曲集団《Con brio!!》のメンバーの中には、私が企画した演奏会をきっかけに本格的に作曲家を目指すようになった者も複数います。私には、ある意味で彼らを道連れにしてしまった責任をどこかで取らなければならないという思いが強くありました。そのためにまず、自分は作曲を職にするのではなく、音楽芸術全体を支え活性化させる『裏方』に回ろうと決心し、結果として今の会社にご縁があり就職することになりました。

現在、《Con brio!!》のメンバーはそれぞれの道で活躍し始めています。いつか、今度はより大きな舞台で、一緒に何かを作ることが夢です。

これから、どんなことをしていきたいですか?

エンタメ業界の裏方として、また、作曲家として、今後も二軸のキャリアを歩んでいきたいと考えています。
表現者の目線を持っているからこそ生み出せるアイデアがきっとあると思います。芸術と社会の架け橋として様々な方に頼っていただけるような存在になりたいです。

KondoNoritaka