服を作り、旅をして、ゆっくりと自分のミッションを見つけていく服飾デザイナー

服を作り、旅をして、ゆっくりと自分のミッションを見つけていく服飾デザイナー

福元卓也(FUKUMOTO TAKUYA)

服飾デザイナー/草木染め

略歴

1961 兵庫県尼崎市生まれ


大阪芸術大学 グラフィックデザイン科 卒業後、広告代理店勤務。


1996 インディーズファッションブランド、”栄養失調の勃起”立ち上げ。

1999 大阪北堀江にShop”PLANET FLOWER”Open。



2005 草木染めを始める。

2009 ブランド、”Botanic Green”開業届。

2024 渋谷区原宿にShop”ヨモギドラゴン”Open


今は何をしていますか?

草木染めを中心に、天然素材を扱った洋服を、デザインして染色しています。自然回帰的な文化を、ファッションを通じて、アウトプットすることを目指しています。

八王子の高尾山の中腹に、自宅兼工房を持っています。草木染はもちろん、型染めという手法や、ヘンプ、オーガニックコットンを使っています。

いろんな人に助けてもらいながらの制作です。型紙や縫製や制作は、それぞれ工場や縫子さんにお願いしています。パートナーの理恵さんは、主に対人的な仕事をしてくれています。運営や生産に関するマネジメント、人への依頼、スケジュール管理など。僕が制作したいものについて話して、「これはちょっと無理」とか、「これはだれかに頼もう」とか。

事務所を原宿に構えて高尾との2拠点生活をしていたのですが、1年前、事務所の移転を機に、原宿の方は店舗にしました。

どうして服を作り始めたのですか?

学生時代から、おしゃれをすることが好きでした。大学の専門はグラフィックデザインで、広告の方に進むのかなと思っていたのですが、紆余曲折あって今に至ります。

当時の彼女が洋服好きで、自分で縫ってお店に卸していたので、横から口出ししていました。そうしているうちに、2人でブランドを立ち上げることになりました。「栄養失調の勃起」という名前のブランドで、蛍光色を取り入れた、クラブに行くようなイメージの服でした。結構ブレイクして、Zipperという雑誌のデザイナーコーナーに連載されたり、日本だけでなくロンドンへ服を卸したりしたんです。ロンドンの日本人新聞の第一面にも載りました。

これとは別に、自分自身で一番初めに作ったのは、襟の部分がTOTOの便座のジャケットでした。白と抹茶色と、スモークピンクの3種類。自分でも着ていたけれど、電車に乗るのは勇気がいるので、ワンカップ飲んでからでした。自己主張したかったんでしょうね。

初めて服飾に関わった後、どのようにして、それを自分の道にしようと考えるようになったのでしょうか。

大学卒業後、ふらふらと自由な生活をしていたら実家に呼び戻されて、一時期は父の建築事務所を手伝っていました。継いでほしかったみたいですが、製図や測量は肌に合わなくて。抜け出して、現代美術家になろうと思って、コツコツ貯金したお金で、ドイツに半年くらい行きました。

ドイツでは、いろんなギャラリーを巡りました。ドイツにいる間、ドクメンタにも行きました。ヤン・フートがキュレーターの時でした。すごく面白かったです。街の中に作品があると聞いて、見に行ったら、ギャラリーがあるはずの場所にはコンビニが営業してて、 ふてくされて帰ったら、そのコンビニがそのお店が作品だったと後から知り、帰りの飛行機の中で感動しました。

ところが、段々とアートが面白くなくなってきて、作品と商品の違いを考えるようになりました。作品はギャラリーでお客さんを待っている状態ですよね。商品は、トビウオみたいに値札がついて飛んでいきます。それに命を与えて「よっしゃ行ってこい」。ヒットしたら嬉しいし、生き生きしている気がする。ファッションもアートも、それぞれ違う魂の淹れ方があって、価値があると思いますが、僕が惹かれたのはファッションの商品を作ることでした。

※ドクメンタ…ドイツの古都カッセルで5年に一度行われる、現代美術の芸術祭。

いわゆるストリートファッションを作っていたところから、どうして草木染へ?

以前のブランド「栄養失調の勃起」は、段々飽きてきて、一旦終わったんです。ニューウェーブはすぐに流れてしまうし。

そこら辺から、段々と自然志向になってきて、10年くらいベジタリアン生活を続けました。その中で、アマゾンに行きました。カヌーで一日がかりで森の奥に入ったところ。

ご飯を焚いて、井戸で洗濯して、食事して、アヤワスカのお茶を飲んで礼拝をしたら夕方で、もうくたくたなんです。すごく健康な生活。

森の中は、見える色が全部緑でした。日本には山がありますが、 それとも違って、平地で360度森が見えるだけという世界。ちょっと歩くと、地球が生まれてから人間が踏み入れたことがないような場所。何か悪いことを考えたら虫のかたまりがどさっと落ちてきたりするような、神秘的な部分もあります。

日本に帰ってきたら、全部が作り物に見えてきて。アマゾンの森のような服を作りたいなということで、今のブランド「Botanic Green」を始めました。いろんな種類の緑色。例えばヨモギだったらグレーっぽい色に、桑の葉だったら黄色っぽい色になります。それでTシャツやレギンスを染めて売っていたのが始まりでした。

※アヤワスカ…アマゾンの植物から作られる、幻覚作用のあるお茶。現地住民の間では、神話的世界や「ビジョン」を観るために広く用いられている。

Botanic Greenを始めて大変だったことはありますか?

最初は僕一人でしていたんです。兵庫県三田市の山奥で草木染をしていました。工房があったわけではなく、山奥の橋の下で、妖怪のように染めていました。煮炊き用に薪が必要で、植木屋の友達からもらったり、建築現場から缶ビールと交換してもらったりして工面していました。

没頭していたら何時か分からなくなります。親父と友達がびっくりして迎えに来て、「今何時?」って「夜中の2時だよ」って。1年半くらいそんな風にしていました。僕のルーツです。染めていた場所は、こないだ通ったら高速の橋桁になってましたね。

店舗を構えたり、サブブランドを作ったり、BotanicGreenも常に進化し続けていますね。

基本的には面白いことをしたくて、デザインをする以外に、イベントなども開催しています。

今のお店は、事務所の移転先として見つけた場所でした。店舗もOKとあったので、ショールーム兼事務所みたいにしようと思っていたのですが、友達に相談したら「全部お店にしちゃいなよ」って。原宿で路面店を出そうと思うと家賃が月50万くらいするのですが、幸いなことに前の家賃から6万円くらい高いだけ。OPEN直前に決まったので、大慌てで友達に施工してもらって、ドタバタとOPENしました。

原宿にお店を持ったことで、今まで買ってくれていたオーガニック系の人達に加えて、ファッション好きの人たちが買 ってくれるようになりました。あとはインバウンドですね。外国から来た旅行客が寄ってくれます。売れ筋は、それぞれ違うのかと思いきや似ています。

原宿に事務所を持ったのは、自然派志向にはない、ストリートテイストを取り入れようと思ったからでした。そういうブランドがそれまでなかったので、面白がられるんです。ぼくのミッションは異種交配だと思っています。全然違う文化圏の人達に出くわすのが好きなんですよ。それもなるべく、偏って変な人。そういう人達といると、新しいアイデアが生まれる気がします。

自分の柄に合わないところって行きたくないじゃないですか。でも案外、無理して頑張って行ってみると、自分のためになることが多いです。そういうのを、自分の作るものの中に出していくと、自分に予想できないいいものが思いついたりする。だから僕は、高尾と原宿とを行ったり来たりするんですよね。

今、振り返って思うことはありますか?

若い時には自分のミッションのようなものに、気づいていませんでした。「人並みにしよう」と思って、人と比べてあせってしまうということもありました。

年を取ると、こっちは突き詰めていくといいけど、こっちに進むと痛い目に合う、自分がやるべきことのパターンが、段々分かってきます。それで自分のミッションを全うしたら、死ぬのは怖くないんです。

いろいろ勉強してきて、人に会って、本を読んで、恩恵を受けてきて、インプットしてきています。それらを、生きているうちに自分のフィルターを通して、全部社会に還元したいなと思います。

”ドイツへ、アマゾンの奥地へ、旅をしながら自分の「ミッションのようなもの」を見つけていった福元さんのお話は、ともすると焦りがちな気持ちを、じっくり探っていけば良いのだと落ち着かせながら、後押ししてくれるように思います。作品と商品の違いについての考え方も興味深かったです。”(ひよこアーツ・戸島由浦)