研究者/アーティスト/大学非常勤講師

取手校地30周年記念展

プロフィール

1994年東京生まれ。2016年に米国・カリフォルニア大学デーヴィス校農業環境科学部国際農業開発専攻・文理学部美術史専攻(二重専攻)卒業。

都内でメーカー勤務を経て、2019年に東京芸術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻入学、2021年に同修士課程修了。

その後は東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科特任助手を経て、現在は非常勤講師。

現在、何をしていますか?

大学院で、文化庁から受託したプロジェクトの特任助手という役職にあった…のですが、今年度の事業について、年度が始まる1週間前に事業全体の不採択が通達されショック!その後、今は非常勤講師として働いています。

これとは別にありがたいことに、自分が究めている地域の研究を、地元の方やほかの地域でも、発表する機会を設けてもらっています。ありがたいことですね。大学で務めていたような役職があるわけではないですが、これも何かより大きな動きの「助手」と呼べるかもしれません。

また、知り合いからの日英翻訳、通訳の仕事をいただいたり、進路・プレゼン・ライティングの指導をしたり、知り合いの農家や農業大学校のお助けをしたりもしています。お代(やお米やお野菜)をいただきながら勉強させてもらっています。

キャリアについて考えることを教えてください。

「安定したキャリアほど良いものはない」と長らく信じ込まされていた気がします。

しかし、いざ目の前の将来が見えなくなると、急に感覚が研ぎ澄まされるのが分かります。その生きている実感がたまらないですね。

キャリアは、合理的な意味では、人間社会において生命維持のために必要なものなのだと思います。しかし、自分にとっては、「ページをめくった先でストーリーがどう展開するかのワクワク感」がキャリアの本体なのだと思っています。

こう思えるのは、今までの実績や経験が自信というかたちをとって陰で後押ししてくれているからでしょうか。

ただ、自分の力でより強く漕ぎ続けなければ、いずれ流れに負けてしまいます。どこかで現状に甘んじようとする気持ちへの警戒心は強く持っていたいと思います。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

美術史専攻の学部を卒業後、会社員を2年半やっていました。ある時、上司の上司に当たる方が面談の場で、
「君はあと5年したら先輩の彼みたいになり、10年したら課長の彼になり、20年したら部長の彼になるかもしれない…」
と、自分がどういうかたちで昇進してゆくのか、とても具体的に例示してくれました。

励ましのつもりでおっしゃってくれたのは間違いなく、今でもありがたいお言葉だと思います。しかし、それまで自分が会社のためにと暗中模索していた中で、急に目先の道筋がパッと誘導灯のように照らされた時、なんだか急に冷めていくので、自分でもびっくりしました。

その頃私は会社の労働組合委員もしていて、たまたまとある社内方針をめぐって対立があったため、組合の本部と職場の事務所を行き来していました。そんなある日の特急車内で、クイズ感覚で芸大の入試問題を解いてみようと思ってふと調べてみたのです。そしたら、とても面白そうな大学院の専攻を見つけてしまい…、その勢いで出願手続きをしました。

後日談ですが、合格発表の日、自分が受かったことを確認した後に向かった工場では、職場委員は徹底抗戦すると伝えてくれました。これはもう職場の仲間たちのために、大学院入学のために辞める前提で矢面に立とう、そう決意したのでした。

大学院では、郊外というよりもはや農村地帯の中の山に隠されたようなキャンパスに通うことになりました。そこで、なぜこの辺鄙な場所にキャンパスがあるのか、それをまず知ったうえで、色々な表現を試してみようと思いました。4月入学でゴールデンウィークくらいには判るだろう、作品作りはそれからだ、と。

結局のところ、今でも自分は、「なぜその場所にキャンパスがあるのか」を、調べ続けています。そこに訪れた学生や教職員誰しもが疑問に思っているはずで、このテーマに興味を持ってくれる方も多いです。そのうちの誰かは既に調べあげて発表しているだろうと未だに思っているのですが…、まだ見つけられていません。

キャンパスと周辺地区にまつわる語られてこなかった歴史を作る試みが、修了制作と論文になりました。修士の2年目で発生したコロナ禍では、郊外のキャンパスと周辺地区について、ネット上にある新聞記事をはじめとした記述をまとめました。調べた内容は大学史にも載っていない(載せていない、が正確と後から知りました)ので、まずは学生を終えるというタイミングで一旦世間に出しました。まだこの活動は続けてゆくつもりです。

これからどうしていきたいですか。

この問いへの答えをあまり言葉にして定めたくはないですが、あえて言うならということで話させてもらいます。

かつて会社員時代、自分が卒業した高校の後輩に、「あなたは今の会社にいては勿体ないですよ」と言われ、衝撃を受けたあまりに返す言葉を失ったことがありました。

その後輩は当時高校生でまだ大学に行ってすらなく、なんと生意気で大胆な発言だっただろうと今でも思いますが、その人にはそう見えたのでしょう。自分に続く人に同じような発言をまたされないように、「生き方を見せないといけない」、という自負を持っています。

ドラマー

プロフィール

1983年生まれ。
2005年に日大の芸術学部を卒業した後、高校時代にはまだなかった藝大音楽環境創造科に学部から入学。卒業後は、大学院 音楽音響創造科に進学。
菊地成孔のバンド『DCPRG』への参加など、ドラムの演奏活動を行う。
DCRPGの脱退以来は、「割と気ままにドラム叩いています」とのこと。

現在、何をしていますか?

フリーでドラムを叩きつつ音環の助手したり、仏教についての演劇を国内外で行なっていたり、ミャンマーの伝統音楽の研究を科研費*もらってやったりしてます。

*科研費…科学研究費補助金の略称。文部科学省と日本学術振興会による、日本の研究者の自由な研究を発展させることを目的にした助成事業。

大学時代にはどんなことを考えていましたか?

ぼんやりと、「良いドラム叩いて人からそこそこ褒められたい」って思ってました、多分。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

途中で他人からの「いいね!」とかそういったものと、自分が出したい音との間にものすごい乖離が生まれてしまって、それ以来他人の評価はどうでもいいので、少しでももっとリズムに近づきたい、と思うようになりました。

なのでもう自分のドラムが金になんなくてもいいや、というスタンスで生きてます。
幸いにもたまに金になったりしてますが…。

キャリアについて考えることを教えてください。

昨日の自分よりも良いドラマーになること、自分が納得できるドラム叩いて死ぬこと、

それだけです。

これからどうしたいですか?

もっとドラムうまくなりたいです。死なない程度の金とリズムがあれば、もうそれでいいかなって思っています。