photo by Natsuki Kuroda

山本さくら(YAMAMOTO SAKURA)

アートコーディネーター/アートマネージャー

略歴

2011年 NPO法人ドリフターズ・インターナショナル主催の「ドリフターズ・サマースクール」に参加。その後、シアタープロダクツ、ドリフターズ・インターナショナルのアシスタントワークを行う。
2013年 アートユニット明和電機のマネジメントスタッフとなる。
2015年 フリーランスのアートコーディネーター。
2018年 スタートアップのベンチャー企業に就職。家庭用ロボットの開発に携わる。
2019年 フリーランスのアートコーディネーター。
2021年 カナダを中心に海外で生活。
2022年 帰国。フリーランスでアートコーディネーターとして活動。

現在は何をされているのでしょうか?

アートコーディネーター、もしくはアートマネージャーとして活動しています。フリーランスで、いくつか仕事をしています。

札幌国際芸術祭2024にコーディネーターとして携わったり、有楽町アートアーバニズムYAUというプロジェクトで企画と運営のチームに入ったり、東京都のアートとテクノロジーの事業の広報をしたりしています。

その他、仕事というよりも自主的に取り組んでいることの一つとして、「都市と芸術の応答体」というラーニングコレクティブの運営をしています。目まぐるしく移り変わっていく都市の中で、互いの対話から言葉を鍛え、眼を鍛え、さまざまな芸術の制作実験をしていく、集団的試行の場です。日本や世界に100人くらいメンバーがいて、気になることを見つけて話し合ったり、試したいことを共有して一緒に試したりしています。

アート業界で、マネジメントサイドはいろんな範囲を網羅しがちですよね。その中で、ご自身の専門性やスキルについてはどのように捉えていらっしゃいますか?

私は美術大学や芸術大学は出ていなくて、普通の四大からフリーターになり、バイトをしながらインターンをする生活でした。最初はどちらかというとパフォーミングアーツの分野にいたのですが、最近はパフォーミングアーツ以外の仕事も多く、自分の専門性って何だろうと考えているところです。

他ジャンルをかけあわせたプロジェクトに関わることが多いです。専門性が確立されていない、誰がどうしたらいいか分からないことに対して、いろんな人と協働しながら作っていくみたいなことをしています。そういうことが得意分野なのかもしれませんね。

フリーランス歴も長くなってきたので、自分の身の回りには、様々な専門性を持った仕事仲間がたくさんいて相談しやすい環境があります。今関わっているYAUも、企画メンバーの専門性が多岐に渡っていて、困ったときにチームで知恵を出し合えるという環境が、非常にやりやすいです。

元々は学校の先生を目指していた山本さん。どうやってこの業界で仕事を始めたのでしょうか?

大学では学校の先生になる勉強をしていて、小中高の免許も取りました。元々子どもが好きで実習や勉強自体は楽しかったのですが、大学で勉強すればするほど社会人を経験せず学校の先生になるイメージが持てなかったり、大学の先生と意見が合わなかったりして。最終的に卒業後の進路を決める段階になって、教員になることはやめました。

ただ、急に就活をしようと思っても、それまで学校の先生になる気でいたので、他に仕事のイメージを持っておらず、どうしようと焦りました。とにかく好きなものからはじめてみることしかできず、当時すごく好きだったシアタープロダクツというファッションブランドのホームページを見ていたんです。そうしたら、金森香さんという広報・プロデューサーを知って。ファッションの仕事に、デザイナーや生産管理、販売員以外の選択肢があるということを、そこで初めて知りました。

金森さんはファッションショーを演劇的に作ったりするのが得意なプロデューサーで、舞台芸術にまつわる制作やマネジメントについてのワークショップをしていました。参加してみるうちに、すごく面白くてハマってしまって。就職は辞めて、フリーターになって、彼女の元でインターンシップをさせてもらいました。そこから始まったと思います。

ファッションショーの制作からキャリアがスタートしたのですね。その後、今の立ち位置にはどのようにして辿り着いたのでしょう。

金森さんの元で活動するうちに、ファッションだけではなく芸術や演劇の方にさらに興味が広がり、次のステップを考えるようになりました。

当時、明和電機(※)がマネジメントスタッフを募集していて、履歴書を送ったらたまたま採用して頂けたんです。正直ラッキーだったと思います。フリーターを脱さないといけないという焦りがあり、面接は前のめりに頑張った記憶があります。

そこから3年間ほど、明和電機のマネジメントスタッフをしていました。通常、例えばペインターのアーティストのマネジメントをするとなったら歌を歌ったりすることはないと思うのですが、明和電機は、彫刻も作るし、絵も描く、歌も歌うし、ドラマにも出る。美術館での大型展示もあれば、大きなライブハウスでライブもする。本も書くし、おもちゃやグッズも開発する。私はここで、アーティストマネジメントに関わることをかなり広範囲に勉強できたと思っています。

当時の明和電機では、3年間したら次のステップに行くという流れがあり、私も「じゃあ次だ」と思って、本格的にフリーランスになりました。

※明和電機:土佐信道プロデュースによる芸術ユニット。青い作業服を着用し作品を「製品」、ライブを「製品デモンストレーション」と呼ぶなど、日本の高度経済成長を支えた中小企業のスタイルで、様々なナンセンスマシーンを開発しライブや展覧会など、国内のみならず広く海外でも発表。

次のステップに進む軽やかさが印象的です。フリーランスになってみてどうでしたか?

2年ほどフリーランスとして働いてみたのですが、思い描いていたように仕事がうまくいかなくて。すごくしんどかった時期です。そこでフリーランスを続けるのを諦めて、ロボットのスタートアップ企業の会社員になりました。事業の内容が新たな挑戦だったので、みんなで分からないことを考えながら新しいものを作り上げていく毎日でした。全然違うジャンルで新たな挑戦をすることや会社員として安定した給与体系で働くことで心が回復し、再び文化芸術の仕事に戻りたいと思うようになり、ちょうど大きなプロジェクトにお声がけ頂けたので戻ることができました。

しんどかったら休んだ方がいいと思います。コロナが流行りはじめた時にも、パフォーミングアーツ関係は仕事が減って、決まっていた仕事がすべてなくなった時がありました。完全にオンラインだけで仕事が進んでいくことにも慣れなかったり、仕事もなく家にこもっていることが辛くなってしまったので、海外に行くことにしました。

せっかく行くなら、勉強したいと思って、カナダの、ママリアン・ダイビング・リフレックスという、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(※)のカンパニーでインターンシップをしました。英語は全くできなかったんです。語学学校に3ヶ月行って、なんとか意思疎通ができるようになり、カナダとアイルランドでふたつのプロジェクトに関わることができました。

その他、Workawayという、という、1日5時間週5日働く代わりに住むところと食べるものを提供してもらえるという仕組みを使って、カナダのアートセンターで、2か月住み込みで働かせてもらいました。とても田舎のアートセンターでしたが、敷地は広大で、私のように住み込みで働いている様々なバックボーンを持った世界各国の人々との出会いや、カナダ各地からレジデンスしにくるアーティストと一緒に生活ができてとても刺激的でした。同じシステムを利用して、アートセンター以外にも、山の中のホテルで働いたり、自給自足の生活をしているおばあさんの畑と牧場を手伝ったりもしました。

都心よりも郊外や田舎にいることの多かった一年間の海外生活に刺激を受け、日本にもどったら東京以外でも仕事をしてみたいと思いました。そこで、札幌国際芸術祭のマネジメントスタッフに応募しました。

※ソーシャリー・エンゲイジド・アート:社会とのリレーショナルな関係を結ぶ実践的な活動(美術手帖ARTWIKIより)

今後について、何か考えていることはありますか?

とても悩んでいます。多拠点生活をすることは、うっすらずっと考えていることです。東京は、日本で特別な場所ですよね。展示・公演の数や種類も多いですし、現代的なものにも古典的なものにも日常的に触れやすい環境で、携わる人も鑑賞する人も多いなと思っています。更には、考えに共感できる友達や信頼できる仕事仲間もたくさんいて、生活しやすいです。それはもちろん良い側面なのですが、自分がその環境だけで仕事をすることに少し違和感を感じています。

その違和感に向き合うために、場所を変えるというのは一つの分かりやすい手段です。一方で、場所を変えなくてもできることはある、とも思っていて、自分がどういう手段で向き合っていくか考えているところです。

これからの動きが楽しみです。最後に、これからのキャリアをどうしようかと考えている方にメッセージをお願いします。

気になることがあったら、ドアを叩いてみることです。例えば行きたい会社があれば、求人してなくても、連絡してみたらいいと思います。意外と返事がきたり、受け入れてもらえたりします。断られても、覚えてもらえたり、何かのつながりにもなることもあります。そういった問い合わせを受け入れる側も経験したことがあります。もちろん適当な問い合わせは受け入れないことが多いです。でも、真摯な問い合わせは少なくとも記憶に残ります。

あと、私はやってみないと分からないタイプなので、とにかくやってみることも個人的には大切にしています。合わなかったら辞めればいい。どうしようもなくなったら、旅が嫌いじゃない人はWorkawayを使って旅をしましょう!

”新しい世界へ飛び込むチャレンジ精神と、本当にしんどい時に迷わず休む強さ、聞いていて勇気をもらえるインタビューでした。それが可能なのはきっと、徹底的に道を探す努力、関心を持ったら連絡を取ってみる踏み出し方があるからですね。旅が嫌いじゃない人は、人生に行き詰まったら、Workawayを使うことをおすすめする!とのこと。いつでも使えるように、頭の隅に置いておきます。”(ひよこアーツ・戸島由浦)

諏訪部 佐代子(SUWABE Sayoko)

大学院生/画家

WEB:https://www.sayokosuwabes.com/

プロフィール

2015-2019 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻

2019- 東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻

2022 メルボルン大学美術研究科 ヴィクトリアンカレッジオブアーツ 交換留学

絵画作品のほか、インスタレーションを主軸として、パフォーマンスや彫刻など幅広いメディアで問いかけている。

今、何をしていますか?

今、オーストラリアに留学しています。

大学に行く半年を終えて、そのあとは、作品制作や仕事などをしながらオーストラリアのアーティストコレクティブでインターンシップをしています。

2017年から交換留学に来たいと計画していて、2020年にオーストラリアへ来るつもりが、感染症拡大の影響でオーストラリアの国境が閉じてしまい、3期ほど交換留学が延期しました。その度に学期を延長するべきか悩んで悩んで、ようやく国境が開いた2022年2月21日にオーストラリアへ来られた!という感じ。

交換留学の奨学金が在学中でないともらえないため、アルバイトやアートプロジェクトを日本でしながら最後の最後まで粘って学生で居続けさせてもらい、今に至ります。

学生であることは権利だと思っています。交換留学生だからこそアクセスできる資料や体験がどうしても欲しかったのです。最終的にオーストラリアへ来ることができて、待っていた時間は無駄じゃなかったとようやく思えるようになりました。

留学する前はどんなことを考えていましたか?

留学に行けなかったコロナ中は、自分のネガティブな部分をめちゃくちゃ見つける機会になりました。元々続けていた日記とは別に、その日に絶望したことを置いていこうと、絶望ノートと希望ノートというのを書きはじめました。

最初はとにかく行きたかったところに行けない絶望感が強く、絶望ノートを書いていたのですが、担当教授や友人に、それより希望ノートを始めた方がいい!と明るく言われて新しくノートをつくりました。今日は西日がきれいだった!とか、ちゃんと上着を掛けた!とかそういう小さなことを書いていくノート。オーストラリアでも続けています。

就職をするかどうするかも一時は迷いました。定期収入が無いと生きていけないので…。就活も一度真剣に考えて、髪も黒くして、写真もとって、履歴書も埋めて、会社も調べて。でも、失礼だなと思っちゃったんですよね。会社のことを一番に考えられないのに、入っていいんだろうか、って。留学もしたいと思っていたわけだし。週5で働くと、制作の時間も取れないし、時間を取って海外に学びに行くことも難しいし。だから考えに考えきってやめました。

同じように留学が延期になっていた君島と、荷物をおく場所としてNULLNULL STUDIOの構想が始まりました。そのうちに、絵も描けたらいいじゃんってことになって、スタジオ兼展示スペースになっています。自分たちのベースになる場所、自分たちのたつ地面がある場所ということは大きかったです。おかげさまで取手VIVAでプロジェクトをやる機会もいただけました。

なぜオーストラリアに?

オーストラリアに来たのは、もともと哲学の本や評論文を読むのが好きで、そのなかで出会ったとある先住民部族の考え方に惹かれたことがきっかけです。

過去とか未来とか昨日とか明日はなくて、先祖や子孫はみんないっしょくたになって、今という時間だけに漂って生きているという考え方。私も昔から似たことを考えることがあって、それってけっこう真理に近いんじゃないかと思って惹かれました。

自分っていう存在が部族と同一化している、というのもあって。それを聞くと、自分のアイデンティティって何だろう、ってなるじゃないですか。そういうところに刺激をもらいながら制作をしたりしています。

あと、教育と社会と芸術がすごく近くて柔軟だなと思っていて。アートの敷居が高くなくて、人とアーティストがすごく近い位置にいる、その現場を見てみたいなと思いました。今お仕事をさせていただいているアーティストコレクティブで、そういった学びたかったことを学んでいます。

キャリアということについてどのように考えていますか?

自分の人生については、自分が心に響く何か言葉が欲しくて人に助けを求めるとか、限られたタイミングのなかで、悩めることは悩み切っています。そのたびにノートに書きだすとか。「アーティストのためのハンドブック」が高校生の時からのバイブルです。

数年前、not for saleと題して、どうやってアーティストとして生きていったらいいかを、周りの人たちと会話する中で見つけていこうというプロジェクトをしたんです。それを発展させる形で、最近、ドイツの現代アートの祭典「ドクメンタ15」のサマースクールで、海外の大学院生や博士の学生に対してワークショップをしました。参加者の特技を他者から評価してもらう、っていうことをして。結構面白い会話になって、すごくいい経験になりました。

天邪鬼なんですよね、反対されるとやりたくなっちゃうから、こうなっちゃったって感じ。ある景色を目指して山に登るということができない。だから、先が見きれないこの道を選んだのは必然だったのかなと思います。自分がやりたいことはどう生きたって決まってるので、一つずつやりきっていきたいです。

これからどうしていきたいですか?

アイデアはいっぱいあって、自分が作りたいものにずっとワクワクする人生を送りたいなと思っています。何かものと出会った時に起こる化学反応みたいなもの、考えの転回を制作と展示の中でずっと求めている気がします。私だけでなくそれが誰かの転回に繋がってくれたら、作家としてそれ以上のことはないと思います。最初の2~3年は海外と日本を行き来しながら制作していきたいです。

私の美術の原点は子供の時から習っていた現代芸術家の先生。
もう亡くなっちゃいましたけど。私に人を驚かせるような変なものを作りなさいといつも話していた先生でした。
私もいつか子どもたちに、こんな適当な変な大人がいていいんだと思ってもらえるような、そんな存在になりたいですね。

NULLNULL STUDIO

君島英樹と諏訪部佐代子によるアーティストコレクティブであり、共同のスタジオ兼展示スペース。

ACCESS:茨城県取手市井野1-7-7サンハイツ取手101

     取手駅徒歩10分(ピンクのカーテンが目印)

  

研究者/アーティスト/大学非常勤講師

取手校地30周年記念展

プロフィール

1994年東京生まれ。2016年に米国・カリフォルニア大学デーヴィス校農業環境科学部国際農業開発専攻・文理学部美術史専攻(二重専攻)卒業。

都内でメーカー勤務を経て、2019年に東京芸術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻入学、2021年に同修士課程修了。

その後は東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科特任助手を経て、現在は非常勤講師。

現在、何をしていますか?

大学院で、文化庁から受託したプロジェクトの特任助手という役職にあった…のですが、今年度の事業について、年度が始まる1週間前に事業全体の不採択が通達されショック!その後、今は非常勤講師として働いています。

これとは別にありがたいことに、自分が究めている地域の研究を、地元の方やほかの地域でも、発表する機会を設けてもらっています。ありがたいことですね。大学で務めていたような役職があるわけではないですが、これも何かより大きな動きの「助手」と呼べるかもしれません。

また、知り合いからの日英翻訳、通訳の仕事をいただいたり、進路・プレゼン・ライティングの指導をしたり、知り合いの農家や農業大学校のお助けをしたりもしています。お代(やお米やお野菜)をいただきながら勉強させてもらっています。

キャリアについて考えることを教えてください。

「安定したキャリアほど良いものはない」と長らく信じ込まされていた気がします。

しかし、いざ目の前の将来が見えなくなると、急に感覚が研ぎ澄まされるのが分かります。その生きている実感がたまらないですね。

キャリアは、合理的な意味では、人間社会において生命維持のために必要なものなのだと思います。しかし、自分にとっては、「ページをめくった先でストーリーがどう展開するかのワクワク感」がキャリアの本体なのだと思っています。

こう思えるのは、今までの実績や経験が自信というかたちをとって陰で後押ししてくれているからでしょうか。

ただ、自分の力でより強く漕ぎ続けなければ、いずれ流れに負けてしまいます。どこかで現状に甘んじようとする気持ちへの警戒心は強く持っていたいと思います。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

美術史専攻の学部を卒業後、会社員を2年半やっていました。ある時、上司の上司に当たる方が面談の場で、
「君はあと5年したら先輩の彼みたいになり、10年したら課長の彼になり、20年したら部長の彼になるかもしれない…」
と、自分がどういうかたちで昇進してゆくのか、とても具体的に例示してくれました。

励ましのつもりでおっしゃってくれたのは間違いなく、今でもありがたいお言葉だと思います。しかし、それまで自分が会社のためにと暗中模索していた中で、急に目先の道筋がパッと誘導灯のように照らされた時、なんだか急に冷めていくので、自分でもびっくりしました。

その頃私は会社の労働組合委員もしていて、たまたまとある社内方針をめぐって対立があったため、組合の本部と職場の事務所を行き来していました。そんなある日の特急車内で、クイズ感覚で芸大の入試問題を解いてみようと思ってふと調べてみたのです。そしたら、とても面白そうな大学院の専攻を見つけてしまい…、その勢いで出願手続きをしました。

後日談ですが、合格発表の日、自分が受かったことを確認した後に向かった工場では、職場委員は徹底抗戦すると伝えてくれました。これはもう職場の仲間たちのために、大学院入学のために辞める前提で矢面に立とう、そう決意したのでした。

大学院では、郊外というよりもはや農村地帯の中の山に隠されたようなキャンパスに通うことになりました。そこで、なぜこの辺鄙な場所にキャンパスがあるのか、それをまず知ったうえで、色々な表現を試してみようと思いました。4月入学でゴールデンウィークくらいには判るだろう、作品作りはそれからだ、と。

結局のところ、今でも自分は、「なぜその場所にキャンパスがあるのか」を、調べ続けています。そこに訪れた学生や教職員誰しもが疑問に思っているはずで、このテーマに興味を持ってくれる方も多いです。そのうちの誰かは既に調べあげて発表しているだろうと未だに思っているのですが…、まだ見つけられていません。

キャンパスと周辺地区にまつわる語られてこなかった歴史を作る試みが、修了制作と論文になりました。修士の2年目で発生したコロナ禍では、郊外のキャンパスと周辺地区について、ネット上にある新聞記事をはじめとした記述をまとめました。調べた内容は大学史にも載っていない(載せていない、が正確と後から知りました)ので、まずは学生を終えるというタイミングで一旦世間に出しました。まだこの活動は続けてゆくつもりです。

これからどうしていきたいですか。

この問いへの答えをあまり言葉にして定めたくはないですが、あえて言うならということで話させてもらいます。

かつて会社員時代、自分が卒業した高校の後輩に、「あなたは今の会社にいては勿体ないですよ」と言われ、衝撃を受けたあまりに返す言葉を失ったことがありました。

その後輩は当時高校生でまだ大学に行ってすらなく、なんと生意気で大胆な発言だっただろうと今でも思いますが、その人にはそう見えたのでしょう。自分に続く人に同じような発言をまたされないように、「生き方を見せないといけない」、という自負を持っています。

国立新美術館夜景

画家/博物館アテンド/アート教室スタッフ/色鉛筆ワークショップ講師

WEB:http://furu-portfolio.sunnyday.jp

ターレンスクラブ記事「プロの机」:https://www.talens.co.jp/talens_club/prodesk/index.html

新美術新聞「画材考」第99回:http://www.art-annual.jp/column-essay/column/76844/

プロフィール

1980年 埼玉県生まれ。
1985年~1990年 アメリカ合衆国在住。
1995年 高校の美術部に入部。
1998年 美大受験のため、仮面浪人するも、不合格。高校からつながっていた4年制大学(立教大学)へ進学。文学部内の芸術系コースに転科。
2003年 大学卒業後、小学校英会話講師(AET)になる。人に教えることの面白さを実感し、その後の色鉛筆ワークショップ講師の下地となった。
2006年 武蔵野美術大学通信教育課程に編入。2年間在学。
2010年 東京国立博物館の運営のアルバイトを始め、9年間続ける。この仕事を始めた前後から、改めて作家として活動しようと決意。色鉛筆と蛍光ペンを組み合わせた独自スタイルを編み出し制作。
2010年~2018年、月光荘ムーンライト展に毎年入選。
2019年、2021年 近代日本美術協会展入選。
2018年~2021年 東京日本橋Art Mall にて4回の企画個展開催。
他多くの入賞、企画個展を重ね、現在に至る。

現在、何をしていますか?

画家としての活動をメインにしています。アルバイトで基本の生活費を稼ぎ、プラスアルファとして年に2回ほどの個展やそれ以外の展示、注文制作、既存作品やアートグッズの注文などの収入を得ています。

キャリアについて考えることを教えてください。

美大に行くことだけが画家になるための方法ではありません。一人一人の人生にとって自分なりの、自分らしく画業を育てるためのカリキュラムのようなものが、その都度用意されていて、それは技術を上げることとは別物の、絵を育てる大事な要素になります。美大に受かることが目的か、画家になることが目的か、人によってはそこで自ずとカリキュラムも変わってくるのかもしれません。

歩んでいく過程で人との出会いが何より大事だと思いますし、個展をやる今でも、個展中いただいた大事なお言葉はメモして残すようにしています。

なぜ絵を描き始めたのでしょうか?

高校の時に、一生続けられることを始めて、一つそれを本気でやりたいと思ったのが、そもそものきっかけです。そこから、画集を読んだり、予備校の講習会に通ったり、美術部の仲間と当時としては労力のいるセルアニメーション映画を作ったりなどして、絵にはまっていきました。

初めは油絵をやっていましたが、大学時はアクリル、そして今は10年以上、色鉛筆を主軸に蛍光ペンや筆ペン、パステルなど複数の画材を重ねるミクストメディアの手法で描いています。

進学時にはどんな考えを持っていましたか?

当初は美大受験を目指しており、高校卒業後、予備校の昼間部に入りました。しかしちょっとしたことがきっかけで、自分が高校時代に築いたスタイルを思いきって描くことができなくなり、成績が落ちていきました。
結果的に美大受験はうまくいきませんでしたが、この時にきつい体験をしていたことで、その後の画家としての活動では、自分の表現に対してオープンに人と関わることができるようになりました。今思えばこれも学びの一つだったのかもしれません。

私は回り道はしましたが、結果的に絵を描いて個展を企画画廊で行い、それを販売するというサイクルを組み立てられるようになりました。これまでの回り道で拾ったものに無駄なものは一つもなく、全てが今現在やっていることにつながって、絵の礎となっています。

これから、どんなことをしていきたいですか?

東京を活動拠点にしている最近は、3つ4つ先まで展示や個展の予約があり、作品をひたすら作らなければいけません。

セルフマネジメントは現代の画家にとって、描くことと同等に重要です。そのため、英語や、DTPなどのデジタル技術も交えながら、東京を拠点にした日本の各地域に根差した展示や、アメリカなどの海外への展示の働きかけ、また画家としてやっていくプラットフォームの構築に力をより入れたいです。

いいと思ったことは、本当に大事なこと以外はどんどん公開し、アートに関わる人同士がお互い手助けし、ともに栄えていくことが、全体としてアートが盛んになる鍵だと思っています。

読者へのメッセージ

芸大、美大、音大に限らず、むしろそこにそれまで所属せず、アーティストとして素晴らしい作品を作っている方はたくさんいます。

アートは、『ジョジョの奇妙な冒険』でいうところの、『スタンド』のようなものだと思います。一人一人が、それぞれの性格、経験、キャラクターが反映されたその人なりのものを持ち合わせており、それをどう大事に水やりして育てるかだと思います。

※スタンド…荒木飛呂彦の漫画作品「ジョジョの奇妙な冒険」に登場する、人のエネルギーが形を持った像として見える超能力現象。持ち主の本人の個性や特技が反映され、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在。