福元卓也(FUKUMOTO TAKUYA)

服飾デザイナー/草木染め

略歴

1961 兵庫県尼崎市生まれ


大阪芸術大学 グラフィックデザイン科 卒業後、広告代理店勤務。


1996 インディーズファッションブランド、”栄養失調の勃起”立ち上げ。

1999 大阪北堀江にShop”PLANET FLOWER”Open。



2005 草木染めを始める。

2009 ブランド、”Botanic Green”開業届。

2024 渋谷区原宿にShop”ヨモギドラゴン”Open


今は何をしていますか?

草木染めを中心に、天然素材を扱った洋服を、デザインして染色しています。自然回帰的な文化を、ファッションを通じて、アウトプットすることを目指しています。

八王子の高尾山の中腹に、自宅兼工房を持っています。草木染はもちろん、型染めという手法や、ヘンプ、オーガニックコットンを使っています。

いろんな人に助けてもらいながらの制作です。型紙や縫製や制作は、それぞれ工場や縫子さんにお願いしています。パートナーの理恵さんは、主に対人的な仕事をしてくれています。運営や生産に関するマネジメント、人への依頼、スケジュール管理など。僕が制作したいものについて話して、「これはちょっと無理」とか、「これはだれかに頼もう」とか。

事務所を原宿に構えて高尾との2拠点生活をしていたのですが、1年前、事務所の移転を機に、原宿の方は店舗にしました。

どうして服を作り始めたのですか?

学生時代から、おしゃれをすることが好きでした。大学の専門はグラフィックデザインで、広告の方に進むのかなと思っていたのですが、紆余曲折あって今に至ります。

当時の彼女が洋服好きで、自分で縫ってお店に卸していたので、横から口出ししていました。そうしているうちに、2人でブランドを立ち上げることになりました。「栄養失調の勃起」という名前のブランドで、蛍光色を取り入れた、クラブに行くようなイメージの服でした。結構ブレイクして、Zipperという雑誌のデザイナーコーナーに連載されたり、日本だけでなくロンドンへ服を卸したりしたんです。ロンドンの日本人新聞の第一面にも載りました。

これとは別に、自分自身で一番初めに作ったのは、襟の部分がTOTOの便座のジャケットでした。白と抹茶色と、スモークピンクの3種類。自分でも着ていたけれど、電車に乗るのは勇気がいるので、ワンカップ飲んでからでした。自己主張したかったんでしょうね。

初めて服飾に関わった後、どのようにして、それを自分の道にしようと考えるようになったのでしょうか。

大学卒業後、ふらふらと自由な生活をしていたら実家に呼び戻されて、一時期は父の建築事務所を手伝っていました。継いでほしかったみたいですが、製図や測量は肌に合わなくて。抜け出して、現代美術家になろうと思って、コツコツ貯金したお金で、ドイツに半年くらい行きました。

ドイツでは、いろんなギャラリーを巡りました。ドイツにいる間、ドクメンタにも行きました。ヤン・フートがキュレーターの時でした。すごく面白かったです。街の中に作品があると聞いて、見に行ったら、ギャラリーがあるはずの場所にはコンビニが営業してて、 ふてくされて帰ったら、そのコンビニがそのお店が作品だったと後から知り、帰りの飛行機の中で感動しました。

ところが、段々とアートが面白くなくなってきて、作品と商品の違いを考えるようになりました。作品はギャラリーでお客さんを待っている状態ですよね。商品は、トビウオみたいに値札がついて飛んでいきます。それに命を与えて「よっしゃ行ってこい」。ヒットしたら嬉しいし、生き生きしている気がする。ファッションもアートも、それぞれ違う魂の淹れ方があって、価値があると思いますが、僕が惹かれたのはファッションの商品を作ることでした。

※ドクメンタ…ドイツの古都カッセルで5年に一度行われる、現代美術の芸術祭。

いわゆるストリートファッションを作っていたところから、どうして草木染へ?

以前のブランド「栄養失調の勃起」は、段々飽きてきて、一旦終わったんです。ニューウェーブはすぐに流れてしまうし。

そこら辺から、段々と自然志向になってきて、10年くらいベジタリアン生活を続けました。その中で、アマゾンに行きました。カヌーで一日がかりで森の奥に入ったところ。

ご飯を焚いて、井戸で洗濯して、食事して、アヤワスカのお茶を飲んで礼拝をしたら夕方で、もうくたくたなんです。すごく健康な生活。

森の中は、見える色が全部緑でした。日本には山がありますが、 それとも違って、平地で360度森が見えるだけという世界。ちょっと歩くと、地球が生まれてから人間が踏み入れたことがないような場所。何か悪いことを考えたら虫のかたまりがどさっと落ちてきたりするような、神秘的な部分もあります。

日本に帰ってきたら、全部が作り物に見えてきて。アマゾンの森のような服を作りたいなということで、今のブランド「Botanic Green」を始めました。いろんな種類の緑色。例えばヨモギだったらグレーっぽい色に、桑の葉だったら黄色っぽい色になります。それでTシャツやレギンスを染めて売っていたのが始まりでした。

※アヤワスカ…アマゾンの植物から作られる、幻覚作用のあるお茶。現地住民の間では、神話的世界や「ビジョン」を観るために広く用いられている。

Botanic Greenを始めて大変だったことはありますか?

最初は僕一人でしていたんです。兵庫県三田市の山奥で草木染をしていました。工房があったわけではなく、山奥の橋の下で、妖怪のように染めていました。煮炊き用に薪が必要で、植木屋の友達からもらったり、建築現場から缶ビールと交換してもらったりして工面していました。

没頭していたら何時か分からなくなります。親父と友達がびっくりして迎えに来て、「今何時?」って「夜中の2時だよ」って。1年半くらいそんな風にしていました。僕のルーツです。染めていた場所は、こないだ通ったら高速の橋桁になってましたね。

店舗を構えたり、サブブランドを作ったり、BotanicGreenも常に進化し続けていますね。

基本的には面白いことをしたくて、デザインをする以外に、イベントなども開催しています。

今のお店は、事務所の移転先として見つけた場所でした。店舗もOKとあったので、ショールーム兼事務所みたいにしようと思っていたのですが、友達に相談したら「全部お店にしちゃいなよ」って。原宿で路面店を出そうと思うと家賃が月50万くらいするのですが、幸いなことに前の家賃から6万円くらい高いだけ。OPEN直前に決まったので、大慌てで友達に施工してもらって、ドタバタとOPENしました。

原宿にお店を持ったことで、今まで買ってくれていたオーガニック系の人達に加えて、ファッション好きの人たちが買 ってくれるようになりました。あとはインバウンドですね。外国から来た旅行客が寄ってくれます。売れ筋は、それぞれ違うのかと思いきや似ています。

原宿に事務所を持ったのは、自然派志向にはない、ストリートテイストを取り入れようと思ったからでした。そういうブランドがそれまでなかったので、面白がられるんです。ぼくのミッションは異種交配だと思っています。全然違う文化圏の人達に出くわすのが好きなんですよ。それもなるべく、偏って変な人。そういう人達といると、新しいアイデアが生まれる気がします。

自分の柄に合わないところって行きたくないじゃないですか。でも案外、無理して頑張って行ってみると、自分のためになることが多いです。そういうのを、自分の作るものの中に出していくと、自分に予想できないいいものが思いついたりする。だから僕は、高尾と原宿とを行ったり来たりするんですよね。

今、振り返って思うことはありますか?

若い時には自分のミッションのようなものに、気づいていませんでした。「人並みにしよう」と思って、人と比べてあせってしまうということもありました。

年を取ると、こっちは突き詰めていくといいけど、こっちに進むと痛い目に合う、自分がやるべきことのパターンが、段々分かってきます。それで自分のミッションを全うしたら、死ぬのは怖くないんです。

いろいろ勉強してきて、人に会って、本を読んで、恩恵を受けてきて、インプットしてきています。それらを、生きているうちに自分のフィルターを通して、全部社会に還元したいなと思います。

”ドイツへ、アマゾンの奥地へ、旅をしながら自分の「ミッションのようなもの」を見つけていった福元さんのお話は、ともすると焦りがちな気持ちを、じっくり探っていけば良いのだと落ち着かせながら、後押ししてくれるように思います。作品と商品の違いについての考え方も興味深かったです。”(ひよこアーツ・戸島由浦)

photo by Natsuki Kuroda

山本さくら(YAMAMOTO SAKURA)

アートコーディネーター/アートマネージャー

略歴

2011年 NPO法人ドリフターズ・インターナショナル主催の「ドリフターズ・サマースクール」に参加。その後、シアタープロダクツ、ドリフターズ・インターナショナルのアシスタントワークを行う。
2013年 アートユニット明和電機のマネジメントスタッフとなる。
2015年 フリーランスのアートコーディネーター。
2018年 スタートアップのベンチャー企業に就職。家庭用ロボットの開発に携わる。
2019年 フリーランスのアートコーディネーター。
2021年 カナダを中心に海外で生活。
2022年 帰国。フリーランスでアートコーディネーターとして活動。

現在は何をされているのでしょうか?

アートコーディネーター、もしくはアートマネージャーとして活動しています。フリーランスで、いくつか仕事をしています。

札幌国際芸術祭2024にコーディネーターとして携わったり、有楽町アートアーバニズムYAUというプロジェクトで企画と運営のチームに入ったり、東京都のアートとテクノロジーの事業の広報をしたりしています。

その他、仕事というよりも自主的に取り組んでいることの一つとして、「都市と芸術の応答体」というラーニングコレクティブの運営をしています。目まぐるしく移り変わっていく都市の中で、互いの対話から言葉を鍛え、眼を鍛え、さまざまな芸術の制作実験をしていく、集団的試行の場です。日本や世界に100人くらいメンバーがいて、気になることを見つけて話し合ったり、試したいことを共有して一緒に試したりしています。

アート業界で、マネジメントサイドはいろんな範囲を網羅しがちですよね。その中で、ご自身の専門性やスキルについてはどのように捉えていらっしゃいますか?

私は美術大学や芸術大学は出ていなくて、普通の四大からフリーターになり、バイトをしながらインターンをする生活でした。最初はどちらかというとパフォーミングアーツの分野にいたのですが、最近はパフォーミングアーツ以外の仕事も多く、自分の専門性って何だろうと考えているところです。

他ジャンルをかけあわせたプロジェクトに関わることが多いです。専門性が確立されていない、誰がどうしたらいいか分からないことに対して、いろんな人と協働しながら作っていくみたいなことをしています。そういうことが得意分野なのかもしれませんね。

フリーランス歴も長くなってきたので、自分の身の回りには、様々な専門性を持った仕事仲間がたくさんいて相談しやすい環境があります。今関わっているYAUも、企画メンバーの専門性が多岐に渡っていて、困ったときにチームで知恵を出し合えるという環境が、非常にやりやすいです。

元々は学校の先生を目指していた山本さん。どうやってこの業界で仕事を始めたのでしょうか?

大学では学校の先生になる勉強をしていて、小中高の免許も取りました。元々子どもが好きで実習や勉強自体は楽しかったのですが、大学で勉強すればするほど社会人を経験せず学校の先生になるイメージが持てなかったり、大学の先生と意見が合わなかったりして。最終的に卒業後の進路を決める段階になって、教員になることはやめました。

ただ、急に就活をしようと思っても、それまで学校の先生になる気でいたので、他に仕事のイメージを持っておらず、どうしようと焦りました。とにかく好きなものからはじめてみることしかできず、当時すごく好きだったシアタープロダクツというファッションブランドのホームページを見ていたんです。そうしたら、金森香さんという広報・プロデューサーを知って。ファッションの仕事に、デザイナーや生産管理、販売員以外の選択肢があるということを、そこで初めて知りました。

金森さんはファッションショーを演劇的に作ったりするのが得意なプロデューサーで、舞台芸術にまつわる制作やマネジメントについてのワークショップをしていました。参加してみるうちに、すごく面白くてハマってしまって。就職は辞めて、フリーターになって、彼女の元でインターンシップをさせてもらいました。そこから始まったと思います。

ファッションショーの制作からキャリアがスタートしたのですね。その後、今の立ち位置にはどのようにして辿り着いたのでしょう。

金森さんの元で活動するうちに、ファッションだけではなく芸術や演劇の方にさらに興味が広がり、次のステップを考えるようになりました。

当時、明和電機(※)がマネジメントスタッフを募集していて、履歴書を送ったらたまたま採用して頂けたんです。正直ラッキーだったと思います。フリーターを脱さないといけないという焦りがあり、面接は前のめりに頑張った記憶があります。

そこから3年間ほど、明和電機のマネジメントスタッフをしていました。通常、例えばペインターのアーティストのマネジメントをするとなったら歌を歌ったりすることはないと思うのですが、明和電機は、彫刻も作るし、絵も描く、歌も歌うし、ドラマにも出る。美術館での大型展示もあれば、大きなライブハウスでライブもする。本も書くし、おもちゃやグッズも開発する。私はここで、アーティストマネジメントに関わることをかなり広範囲に勉強できたと思っています。

当時の明和電機では、3年間したら次のステップに行くという流れがあり、私も「じゃあ次だ」と思って、本格的にフリーランスになりました。

※明和電機:土佐信道プロデュースによる芸術ユニット。青い作業服を着用し作品を「製品」、ライブを「製品デモンストレーション」と呼ぶなど、日本の高度経済成長を支えた中小企業のスタイルで、様々なナンセンスマシーンを開発しライブや展覧会など、国内のみならず広く海外でも発表。

次のステップに進む軽やかさが印象的です。フリーランスになってみてどうでしたか?

2年ほどフリーランスとして働いてみたのですが、思い描いていたように仕事がうまくいかなくて。すごくしんどかった時期です。そこでフリーランスを続けるのを諦めて、ロボットのスタートアップ企業の会社員になりました。事業の内容が新たな挑戦だったので、みんなで分からないことを考えながら新しいものを作り上げていく毎日でした。全然違うジャンルで新たな挑戦をすることや会社員として安定した給与体系で働くことで心が回復し、再び文化芸術の仕事に戻りたいと思うようになり、ちょうど大きなプロジェクトにお声がけ頂けたので戻ることができました。

しんどかったら休んだ方がいいと思います。コロナが流行りはじめた時にも、パフォーミングアーツ関係は仕事が減って、決まっていた仕事がすべてなくなった時がありました。完全にオンラインだけで仕事が進んでいくことにも慣れなかったり、仕事もなく家にこもっていることが辛くなってしまったので、海外に行くことにしました。

せっかく行くなら、勉強したいと思って、カナダの、ママリアン・ダイビング・リフレックスという、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(※)のカンパニーでインターンシップをしました。英語は全くできなかったんです。語学学校に3ヶ月行って、なんとか意思疎通ができるようになり、カナダとアイルランドでふたつのプロジェクトに関わることができました。

その他、Workawayという、という、1日5時間週5日働く代わりに住むところと食べるものを提供してもらえるという仕組みを使って、カナダのアートセンターで、2か月住み込みで働かせてもらいました。とても田舎のアートセンターでしたが、敷地は広大で、私のように住み込みで働いている様々なバックボーンを持った世界各国の人々との出会いや、カナダ各地からレジデンスしにくるアーティストと一緒に生活ができてとても刺激的でした。同じシステムを利用して、アートセンター以外にも、山の中のホテルで働いたり、自給自足の生活をしているおばあさんの畑と牧場を手伝ったりもしました。

都心よりも郊外や田舎にいることの多かった一年間の海外生活に刺激を受け、日本にもどったら東京以外でも仕事をしてみたいと思いました。そこで、札幌国際芸術祭のマネジメントスタッフに応募しました。

※ソーシャリー・エンゲイジド・アート:社会とのリレーショナルな関係を結ぶ実践的な活動(美術手帖ARTWIKIより)

今後について、何か考えていることはありますか?

とても悩んでいます。多拠点生活をすることは、うっすらずっと考えていることです。東京は、日本で特別な場所ですよね。展示・公演の数や種類も多いですし、現代的なものにも古典的なものにも日常的に触れやすい環境で、携わる人も鑑賞する人も多いなと思っています。更には、考えに共感できる友達や信頼できる仕事仲間もたくさんいて、生活しやすいです。それはもちろん良い側面なのですが、自分がその環境だけで仕事をすることに少し違和感を感じています。

その違和感に向き合うために、場所を変えるというのは一つの分かりやすい手段です。一方で、場所を変えなくてもできることはある、とも思っていて、自分がどういう手段で向き合っていくか考えているところです。

これからの動きが楽しみです。最後に、これからのキャリアをどうしようかと考えている方にメッセージをお願いします。

気になることがあったら、ドアを叩いてみることです。例えば行きたい会社があれば、求人してなくても、連絡してみたらいいと思います。意外と返事がきたり、受け入れてもらえたりします。断られても、覚えてもらえたり、何かのつながりにもなることもあります。そういった問い合わせを受け入れる側も経験したことがあります。もちろん適当な問い合わせは受け入れないことが多いです。でも、真摯な問い合わせは少なくとも記憶に残ります。

あと、私はやってみないと分からないタイプなので、とにかくやってみることも個人的には大切にしています。合わなかったら辞めればいい。どうしようもなくなったら、旅が嫌いじゃない人はWorkawayを使って旅をしましょう!

”新しい世界へ飛び込むチャレンジ精神と、本当にしんどい時に迷わず休む強さ、聞いていて勇気をもらえるインタビューでした。それが可能なのはきっと、徹底的に道を探す努力、関心を持ったら連絡を取ってみる踏み出し方があるからですね。旅が嫌いじゃない人は、人生に行き詰まったら、Workawayを使うことをおすすめする!とのこと。いつでも使えるように、頭の隅に置いておきます。”(ひよこアーツ・戸島由浦)

遠藤 直幸(Naoyuki ENDO)

尺八/インタビュー活動

「その後の藝大生ー「プロ」にならなかった人達」https://note.com/free40/n/nc619f84f69b3

プロフィール

芸名は遠藤頌豆(Shoto Endo)。1980年、福島県生まれ。高知大学のサークルにて尺八を始め、22歳で上京。

東京藝術大学の別科と大学院を修了。

全国コンクール入賞や海外演奏などキャリアを積み、演奏家を目指し活動していたが、様々な壁を前に挫折。

現在は東京郊外に在住し、尺八だけでなく様々な活動を通して自己の芸術を探求している。

現在はどんな活動をされているのでしょうか?

大学で尺八を学んだ後、卒業して約20年、様々な活動に関わって生きています。活動は、大きく分けると5系統あります。演奏、図書館に関すること、マイノリティの人々との関わり、インタビュー活動、アルバイト。

演奏は尺八ですね。一番力を入れているのはボランティア演奏です。福祉施設を定期的に2箇所、そして依頼があればスケジュールをみて演奏にいってます。ボランティア演奏は演奏する側も、聴く側も、良い意味でハードルが低いので、その場でプログラムを変えたりふざけたりしながら、楽しくやってます。

図書館では、図書館協議会(図書館の外部評価委員)と、読書会の開催をしています。元々本が好きで、今住んでる街の図書館の館長さんと仲良くなり、図書館の在り方を考えたいと思ったのがきっかけです。先日開催したのは、リサイクル読書会。要らない本を持ち寄って交換しましょうというものでした。図書館にポスターを貼って宣伝しているものの、それだけでは申込む人はいないので、駅前でビラ配りをしています。目立つ格好をすればビラを受け取ってもらえるんじゃないかと思い、着ぐるみを着て配るようになりました。そしたら、もらってくれるひとが増え、それ以上に、その様子を面白がってくれる人が増えたんです。着ぐるみは、バカバカしくあればあるほどウケます。楽しくて、最近はビラ配りが目的になってきています。

マイノリティの人々との関わりについて言えば、ここ4~5年、引きこもり家族会というものに参加しています。引きこもりや生きづらさに関する本を読んでるうちにリアルでつながったら面白いんじゃないかと思い、見学したいとメールしたところ、いいですよと受け入れて頂き、毎月参加するようになりました。通ううちに、ホームパーティーや飲み会、あとはギターを趣味でやってる方がいて一緒に演奏を楽しんだりするようにもなりました。僕自身は引きこもりではないし、その家族でもないけれど、自由な立場で発言できる異分子的な存在として、仲良くして頂いているように思います。

4つ目に挙げたインタビュー活動は、最近始めたものです。藝大生の卒業後について興味があって調べています。「その後の藝大生ー「プロ」にならなかった人達」というタイトルで、6人の方に話を聞き、ようやく1記事をnoteにUPしたところです。皆さん、なぜ芸術をするのか。お金にはならないことが多いし、はたから見れば変なことを本気でやっている。そしてプロにならなかったことをどう受け止めているのか。もちろん、みんながプロを目指して藝大を出るわけではないにせよ、皆さんがどう生きようとしているのかを知りたいと思っています。

アルバイトはコールセンターで15年ほど、週3回10時間働いています。ゆるい不思議な会社です。始めた当初は、寝坊で遅刻したり、無断欠勤もしたりと相当にめちゃくちゃでしたが、なぜか皆さん優しく接して下さって、居心地よく今も続いてます。ちなみにもちろん今は無断欠勤も寝坊もしてないですよ(笑)。

たくさんの活動の中で、共通する関心事項はありますか?

どの活動においても、結局のところ、相手はそれぞれ人間なので、「この人とこの瞬間の関係性をより良いものにしたい」と思っています。

関係性にも会話にも、たくさんの可能性があります。例えば、電車に乗ると、多くの人が乗っていて、「これ、話しかけることはできるのかな」と思ってしまいます。もし話すことができたら、この時間は豊かになるかもしれない、それをみすみす失っているのかもしれないと。さすがにしたことはないですけれど。そうやって、コミュニケーションの可能性を探りたいと思っています。

コミュニケーションは、上手くいくことだけが正解ではないと思います。「この人、面倒くさそうだな」と思うことも含めて関係性ではないでしょうか。思っていることを投げかけてみて、関係性が続くかどうかは未知数ですが、その不確実さが面白いのだと思います。

最終目標は、他人やこの世界とどう関係性を作るかということ。僕がしていることの多くは、そのための活動です。

偶然出会ったその人やたまたま居合わせた場との関係性を生きたいと思っています。

遠藤さんがたくさんの活動を行う中で、「お金を稼ぐ」とはどのような位置づけですか。

お金のために働く時間はなるべく短くしたいと思っています。今の収入は1週間に30時間働くアルバイトと、演奏や図書館協議会の謝礼が少し。楽しく稼げたらいいけど、現実的には難しいので、家賃2万円台のアパートに住み、お金を必要としない生活をしています。

アルバイトは気楽な職場ではあるものの、どうしてもポジショントークや本心でない言葉を使ってしまうことがあるので、自己矛盾を感じながら働いています。

お金はあるほうがいいと思いますが、できればお金がなくてもなんとかなるよねという生き方を目指したいと思っています。

音楽への向き合い方は、時と共に変化がありましたか?

 藝大にいた約20年前は、就職活動をする人はほぼおらず、周囲ではアーティストになるのが成功だという考え方の人が多かったです。そのために演奏は絶対に上手くなければいけない、プロを目指すんだからどんな依頼でも無理してやるべきだと思っていました。自分なりに頑張ってはいましたが、当時はその価値観を内面化しすぎて、上手く演奏できない自分や、仕事をこなせない自分を責め続けていました。

僕は尺八を、2度辞めています。1度目は20代後半。2度目は30代半ばです。

 2回の挫折を経て、もうこれ以上は上手くなれないし才能もないだろうと思い、それならいっそ上手い下手ではない音楽を目指してみたいと思うようになりました。そう思い始めてから「まだやれることが沢山あるかもしれない」と思えるようになりました。主体的に動けるようになり、同じ考え方をもった方と知り合う機会も増えました。

これからどのように生きていきたいですか?

変な表現になるんですが、その場のノリで生きていきたいと思います。目的や目標を敢えて持たずに、その場の可能性を常に探りながら生きたいと思っています。目的を決めすぎると軸足が「今」から「未来」になるんですよね。そうすると途端に「今」が窮屈になっていくんです。

これは僕にとって、人間関係におけるモットーでもあります。立場や関係性を定めすぎず、対等な人間として互いに自然に振る舞えるような関係性を築くことが理想です。

読書会などのイベント、演奏の場、お金の稼ぎ方、人との関係、常に可能性と偶然性に開かれたものにしていきたいと考えています。

”今回伺った遠藤直幸さんの考え方には、これまでの試行錯誤や葛藤を経て独自のモットーに行きついている、心強さがあります。活動は多岐に渡っておられますが、話を伺ううちに、人との関係づくりという軸が見えてきました。
インタビュー活動「その後の藝大生ー「プロ」にならなかった人達」では、プロ(お金を稼いでいたり、卓越した技術があったり、やらずにはいられなかったり、プロと言い切ったりする人々)ではない生き方を選んだ藝大生のその後の考え方へ、強い関心を持たれていることが伺えます。今後のインタビュー活動の展開に注目すると共に、ひよこアーツとしては、互いにレビューをし合える関係になりたいと思っております。”

篠原 英里(Eri SHINOHARA)

学芸員

経歴

1989年 徳島県徳島市生まれ。

2015年 東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻修士課程修了。専門は日本近代美術史。

2016年 八戸市美術館で学芸員として就職。

2017〜2021年 新美術館整備期間中、八戸市新美術館建設推進室に所属。

2022年 八戸市美術館再開館後初となるコレクション展「持続するモノガタリ─語る・繋がる・育む 八戸市美術館コレクションから」(2022年3月19日〜6月6日)を担当。

現在、学芸員として、どんなお仕事をなさっていますか?

2016年から八戸市美術館で学芸員として勤務しています。

実は、八戸市美術館は2017年に一度閉館し、2021年に新しい建物で再開館しました。就職してすぐに「1年後に閉まるよ。」と言われ、最後の一年でイベントが詰まっていて大変だったことを覚えています。


小さい美術館で、学芸員2人、館長1人、みたいな。チラシ作成や、キャプション作りや、招待券作りなど、展示にまつわる事務をすべてやっていました。
その後、新美術館推進室に、2017年夏~2021年3月頃まで、3年ちょっといました。新美術館に向けた基本的な方針(建設、その中の運営)を考えると共に、美術館施設がなくても行える学校連携事業は継続して担当していて、「旅するムサビプロジェクト」を誘致するなどしていました。

※旅するムサビプロジェクト…武蔵野美術大学が実施する、美術大学生が全国各地の小中学校を訪れ授業を実施するという事業。

八戸市美術館の再開館後は、開館2回目の展示「持続するモノガタリ─語る・繋がる・育む 八戸市美術館コレクションから」という企画を担当しました。

2019年くらいに、再開館時の企画アイデアを学芸員で出し合っていたんです。「持続するモノガタリ」はその時に提案したもので、収蔵コレクションを通して八戸を振り返るということをしたいと考えていました。他にでたアイデアは現代美術の企画提案が多く、2021年11月の開館記念展覧会は「ギフト、ギフト、」という企画でした。

大学院では芸術学を学んでいたそうですね。どうして芸術学だったのですか?

徳島に住んでいた幼い頃、美術館や博物館によく行っていました。大塚国際美術館で宗教絵画を観るのが好きでした。それと同時に幽霊や妖怪に興味があり、民俗学で幽霊や妖怪を研究対象にしている分野があると知って、惹かれていました。それが中学生の頃。

美術への関心と、幽霊や妖怪への興味がいつの間にか融合して。妖怪や幽霊を美術の観点から見るということがしたいと思うようになり、東京藝術大学の美術学部芸術学科に進学することを目指しました。

卒業論文のテーマは、なぜ幽霊と共に青い炎がかかれるのか。最初に描かれたものを探して、その後の事例も年代別に並べて、その変化を考察しました。理由となる要素はいくつかあって、人間の魂を光や炎として考えるという発想、陰陽道の陰と陽、焼酎を燃やして青い火の玉にする歌舞伎の演出などが考えられました。その後、修士論文は、小川芋銭という、河童をよく描いていた近代画家をテーマにしました。

世界妖怪会議や深川お化け縁日などのイベントに行ったり、幽霊や妖怪に関する展示を見たりして、お化けに関心がある仲間を得ていました。

そこから、どのようにして学芸員になったのでしょうか?

小学生くらいの時に遡りますが、徳島県立博物館の学芸員さんによる、ギャラリートークを聞いたんです。自分とは違う視点で作品を観ていることを感じて、それが面白くて、楽しそうで。好きなものを発信できる学芸員という仕事に惹かれていました。

一浪して大学に入った後、就職するなら学芸員だろうなと思い、学芸員の授業を取っていました。そのまま院に進んで研究を続け、就職活動をしたのは修士2年の時。学芸員の採用試験は各自治体が実施しています。全国各地に足を延ばして受けに行きました。

結局、在学中は就職は決まらず、大学院を卒業した翌年は、研究室の助手をしながら就職活動を続けていました。北は東北から南は九州まで、10か所以上受けていて、旅費とメンタルが厳しかったです。最初に採用が決まったのが八戸でした。

私は、学芸員とは、歴史を作る仕事ではないかと思っています。作家が言語化していなかったり気づいていなかったりしても、学芸員は作品とその背景を俯瞰的に観て、明文化して、掘り起こしていきます。それを、将来につなげていくと、歴史になるのではないでしょうか。

一方で、将来のことはまだ決めていません。笑顔を忘れず、惹かれたことに近づいていける身軽さを持って生きていきたいと思います。

”やりたいことに一直線だからこそ、ご自身の納得の行くまで幽霊・妖怪を研究し、現在は学芸員としてご活躍の篠原さん。お人柄そのものにも、彼女が研究していた人ならざるモノにも、そして八戸にも、それぞれに興味深さを感じるひよこアーツでした。”

吉田 昂平(Kohei YOSHIDA)

プロダクトデザイン

吉田さんはどのようにして、プロダクトデザインを仕事とするようになったのでしょうか。

僕は大学院を卒業して、FRASCOという会社で、CGクリエイターを4年弱していました。その後、銭函にある8Aガレージプロダクトで働いた後、正式に吉田造形研究所をメインとして掲げるようになりました。それが2022年の話。

CGの仕事をする前から、将来的にプロダクトデザインをしたいというのは話していて、入社前から、副業として個人の活動の許可を頂いていました。

僕がCGで作っていたのは、パース絵と呼ばれる、建築の完成イメージ図のようなものです。建築学生の時からパソコンで3Dモデリングをするのが得意だったし、これを磨けばプロダクトデザインの能力は間違いなく上がるなって思って。建築設計に戻ろうと思えば戻れるし。

ということで、3DCGで造形能力を伸ばしながら、副業でプロダクトデザインをして仕事を取れるようになるってことがFRASCOにいるときのミッションでした。

初めてプロダクトデザインで仕事を得たのは、仕事で参加した異業種交流会でのことでした。そこで知り合ったつてでキャンプアイテム(キャンプギア)を作りたいという話があって、それが2020年の秋くらいだったと思います。AEGISっていう名前で、折り畳み式の風防&五徳を作りました。中に火を入れて、風を防ぎながら、飯ごうを乗せたりするものです。経験の浅い僕に任せて頂けた分、必死で頑張りました。

風防&五徳 AEGIS https://onlineshop-p.8agarage.co.jp/items/67848880

現在の活動の中心である吉田造形研究所はどのように始まったのでしょうか?

2021年の10月くらいから動いてはいました。3人体制で拠点を持って始めたのは2022年の1月。それから事務所移転をして今に至ります。

初期メンバーの吉田拓と話していて、2人とも吉田だし、吉田造形研究所って面白いんじゃないかなというのがきっかけ。吉田拓については、数年前から噂を聞いていて、建築設計者の集まる交流イベントで直接の接点を持ちました。

もう一人の初期メンバー、吉田大とは、僕が大学3年の時に、佐呂間の建築事務所でオープンデスク(建築業界のインターンシップのようなもの)をしていた時に知り合いました。それ以来、たまにやり取りはしていたけど、そのうち会わなくなっちゃった。でもふと、街なかで仕事中の彼を見つけて、「えっ、何してるの?!」と久しぶりに再会しました。

吉田拓と吉田大は僕の知らないところでつながっていて。いつの間にか3人がつながったので、「じゃあ皆で飯でも行きますか」となりました。その時は吉田大が面白いプロジェクトを持っていて、僕もやりたいと言って加わったんです。その後、「次は3人でやってみよう」って。

これからの夢やビジョンはありますか?

プロダクトデザインには、数多く流通する製品を作る仕事から、一点ものを作る仕事まで、幅広くあります。今はどちらかというと一点ものの仕事が多くて。「それって彫刻に近いかも?」って思ったり。おこがましいのかな?彫刻家ってなんだろう…。そんな感じで、先の未来を考えています笑。

もっと近い未来の話をすると、今事務所がある苗穂で、地域のいろんな活動に関われたらと思っています。今の事務所は、元々、まちづくり協議会が使っていた場所。建物の管理をしているノーザンクロスの担当者も苗穂を盛り上げようとしている。近所の人たちとも積極的に繋がって活動していきたいです。キッチンカーや屋台もデザインさせてもらった事があるので、地域のイベントに来ていただいたら盛り上がるかなとか。

最後に…キャリアや進路を考えるうえで、何が大事だと思いますか?

自分がしたいことを実現するために大切なことは何か、考えるようにしています。

そしてやっぱり、とにかく、今考えていることを人に話すことかなと感じてます。明確なビジョンや目標。何をしたいのか。

8Aガレージの社長に、会社のある銭函まで札幌から毎週送ってもらっていた時、車内でいろんなことを話しました。経営のノウハウとか、人間関係とか、人生相談とか。その中でも、とにかく人に話して相談することが大事だと仰っていて、今振り返ってもそれは本当に実感します。たくさんの方々に支えられています。

吉田造形研究所/YMLとは?
北海道札幌市を拠点にプロダクトから建築、コトづくりからモノづくり、それぞれの異なるデザイン経歴を織り交ぜたアプローチで、振れ幅のあるデザインの提案を行う造形ユニット。スケールに捉われず、デザインの可能性を日々探求している。2021年に結成。これまでの実績として、展示什器、キャンプギア、キッチンカー、店舗内装など幅広い作品を手掛ける。プロジェクトに応じて、設計から施工までを一貫して行う。

”近所の交流会で出会った吉田さん。人をしゃべりたくさせてしまうような不思議な話術に、あっという間に取り込まれてしまいました。お話お聞かせ下さり、更には企画の相談にも乗って下さり、いつも本当にありがとうございます。「作りたいもの」のこだわりを持ちながら、経営と制作の両面から活動を開拓していらっしゃるなと感じています。
札幌の苗穂駅前地域は、新しいものと古いものが混在しており、また、アート関連の拠点もいくつかあり、面白い場所です。今後のご活躍を楽しみにするとともに、いずれ何かご一緒できたら嬉しく思います。”

山碕 桜(YAMAZAKI Sakura)

会社員/アートマネジメント

現在、何をしていますか?

デベロッパーとして働き、まちづくりに関わっています。

大学までの道のりはどのようでしたか?

高校生の時にオペラの舞台に携わったんです。その時の皆で作り上げていく感じが好きで、こういう場づくりの一部になりたいと思うようになりました。部活でも、オーケストラ部でホルンを吹いていて、演奏家になりたいわけではないし、聴衆は年配の方が多いし、もっとクラシックをポピュラーにできる裏方になりたいなと思っていました。

それで大学ではアートマネジメントの研究室に行きました。ところが、音楽系だと思った研究室が実は美術系で(笑)。

最初は全然馴染めなくて、でもだんだん、無理に理解しようと思うよりは、まずは耳を傾けて現場に身を浸してみようと思うようになりました。そのうちに、現場でも対話できるようになり、スタッフとして動けるようになって、気づいたらのめりこんでいました。

なぜ今のお仕事に?

大学院に行きたい時期も少しあったけれど、そこから外に出ていけるイメージは持てなくて。現実的な観点も考えて、気づいた時には就職しようと考えていました。

当初はエンタメ業界を考えていましたが、ちょうど面談に入る頃にコロナが直撃で、業界は大打撃を受けていました。採用を見送る企業もありました。そこで、視野を広げようと思い、

  • 場づくりにたずさわれること
  • 変化を受け入れられる企業風土であること

の2点を軸に就活をしました。デベロッパーを目指したのは、就活支援会社による薦めがきっかけでした。

藝大には、一つのことをずっと熱量を持って続けている人がたくさんいました。彼らを見て、私の長所は、複数の草鞋を履いていろんな文脈を理解して拾って、人をつなぐことが得意なんじゃないかなと思ったんです。

キャリア選択を振り返って思うことがあれば教えてください。

これまで、リサーチ不足で新しいことを始めることが多くありました。

ただ、共通して言えるのは、いろんな人の間に立って調整しながらものごとを進めていく過程や、それを経て迎える本番やハレの場に魅力を感じていたということだと思います。

今後について考えることを教えてください。

最近は、まちづくりにアートが関わる場面が増えて来ています。

多くの関係者が納得できるものや、都市開発の法制度等を考えると、どうしても、角の取れた似たようなまちになりがちです。ただ、これから、魅力的なまちを増やすためには、アーティストが過去の表現を踏まえて新しいものを生み出すように、それまでのまちの文脈も含めて、まちに呼応するような個性の出し方ができるといいんじゃないかなと思っています。

しかし、不動産業界の人たちと、クリエイティブ側の方たちは、本来は意思決定の仕方が全然違います。まちづくりにおいて、合理的に考えてたどり着ける場所だけでなく、更に飛躍して面白さを出すために、一緒に仕事をしていくためのかけ橋になれたらいいな、なんて思いますね。

また、批判は絶対にあるものだと思いますが、それらを受け止め背負ってでもこういう開発をしたいと言えるような計画を出していかないと、まちを大好きな人たちには誠実でいられないんだろうなと思っています。
都市開発に関わる社員は、人数が多いと言っても同じ業界の限られた人たちです。そういう中で疑問を呈せるくらいの勇敢さを持ちたいと思います。

山碕さんにとって、キャリア選択とは?

いろいろ現実的な要素はたくさんあるけど、最終的には、私は欲のままに決断している気がします。

自分が身を置いているところを想像した時に一番わくわくするものを選べたらいいと思います。

こちらもご覧ください!(他メディアの記事)

PRESIDENT Online
三井不動産、アクセンチュア、DeNA…「美大・芸大生」が超人気企業からバンバン内定を取れる本当の理由

美大芸大就活ナビ
【先輩インタビュー】私が総合職を選んだ理由~三井不動産で活かせる美大芸大生の強みとは?~

ミュジキャリ先輩インタビュー

「音大生第1号」としてその会社へ飛び込んでいく 人と比べず行動した就活体験記

どんぐり企画とは

どんぐり企画とは、鳴海遥真(兄)と菜歩(妹)が立ち上げた演劇企画。”私たちの描く非日常は、誰かの日常かもしれない “をコンセプトに、会話劇を中心とした演劇活動を行う。
2022年9月に第1回公演「いつか、どこかで、だれかの」を神戸にて上演。現在はコアメンバー5人で活動中。

お二人は、いつから演劇を始めたのですか?

菜歩:高2の冬、進路を考えるときに、やりたいことがなかったんです。ただ、本を読むのもドラマや映画を観るのも好きでした。そこで、好きだけどできないこと、やったことのないことはなんだろうと考えたら、それが演劇でした。
読んだり書いたりするときに頭の中で映像化していることを、自分の体を使って表現できたら楽しいんだろうなと。そう考えて、演劇をやりたいと思うようになりました。

鳴海:元々演劇が好きというわけではなかったんです。でも、高校の文化祭で、毎年クラスごとに演劇をやるという行事があって、何故か高1の時から脚本を書いていました。それがきっかけでした。小さい頃から本を読んだり、ドラマを見たりしていて、どこかで作り手に回りたいという思いがあったのかもしれないですね。当時から、派手さで見せる舞台よりは、メッセージ性のあるものが好きで、高校時代は楽しかった分、大学でももっと演劇を深めたいと思って、演劇サークルに入りました。

どんぐり企画はどのように始まったのでしょうか

鳴海:大学では4年間演劇をしていましたが、社会人になったら、そんな余裕はないだろうと、演劇をキッパリ止めようと思っていました。ですが4年生の時、新型コロナウイルス感染症の影響で、卒業公演ができず不完全燃焼だったんです。また、実際に働いてみたら土日は暇だし、演劇できるじゃん!となりました。少しやってみて、活動できそうだと感じたので、いくつかの団体にも参加するようになりました。ちなみに仕事は、広告系の企画制作会社で働いています。文章やコピーを書くのが好きで、今2年目です。
こうして演劇を続ける中で、他人の劇団で迷惑はかけられないし、自分の好きなときに好きなようにできる場所を作りたいと思うようになりました。そこで、妹に声をかけて始めたのが、どんぐり企画です。この界隈では兄妹企画というものがあまりないのと、妹に脚本を書いてもらおうということも考えていました。

菜歩:私は、大学に入ったものの新型コロナウイルスの影響で授業がオンラインだったので、やりたかった演劇も思うようにできず…。
そこでとりあえず休学して、ピッコロ演劇学校に本科に週2回、1年通いました。そこで初めて演劇をしっかり学びました。その後、2月ごろ、ちょうど復学を決めたタイミングで兄から連絡がきたんです。「兄妹企画みたいなのやらん?」って。面白そうだったのでノってみたら、脚本をほぼ初めて書くことになりました。
短い脚本なら一度、中2の時に書いたことがありました。「眠れる森の美女」をもじって「眠れる山のおっさん」という題で、宿泊行事のクラス発表で。でも皆お芝居なんて初めてだから、全然上手くいかなくて。悔しかったです。

鳴海:「兄妹企画みたいなんやらん?」「詳しく聞こうじゃないか」これが始まりでした。妹は本を読んだりドラマを観たりしていて、物語を書いているのも見たことがあったので、脚本を任せてみたいなと思ったんです。

どんぐり企画で、作りたい作品や、観てほしいお客さんはいますか?

菜歩:どんぐり企画では、演劇を知らない人にも共感しやすい、日常というテーマを扱っています。小劇場を観に行くと、分かる人にしか分からない作品も多いんですよね。中高時代から、皆、演劇には興味がないんだなと感じていました。そういうのを変えたいと思って。
だから、演劇関係者でも家族でもない人に、本当は観てほしいです。彼らの目に留まる方法を探したいと思うけど、難しいですね。

鳴海:演劇は演劇関係者だけで経済が回っている。制作や広報をするときに、よく心に留める言葉です。映画やドラマみたいに、演劇に興味のない人も、観て楽しめる作品を作りたいと思います。
今回の公演は、私たちの親戚も含めて、普段演劇を観ない人も来てくれて、彼らからは好評だったのが嬉しかったです。最初はそうやっていろんな人が来てくれたので、僕たちにとってはある意味、第2回の公演が勝負かもしれません。

第1回公演に向けては、どんなふうに進んだのでしょうか?

鳴海:演劇だけでなくて、いろいろな企画を出来たらと思っていたので、”〇〇劇団”という名前にはしたくなかったんです。「どんぐり」という名前については、祖父母が開いている、どんぐり文庫という、本を貸し出す小さな図書館にルーツがあります。祖父母も高齢になってきていて、いつまで続けられるか分からないので、形態は違うけど名前を引き継げたらいいなと考えました。

菜歩:私も兄も、どんぐり文庫で本に囲まれて育ちました。それがなかったら私はたぶん演劇に興味を持っていなかったと思います。
公演に参加するメンバーは、知り合いをスカウトしつつ、SNSなどで一般公募しました。

鳴海:知り合いばかりになると、身内ノリになってしまう。誰が来るか分からないリスクはありますが、外からの意見を取り入れて、開かれた集まりにしたいと思いました。

菜歩:実際、大学生から社会人、私の演劇学校の知り合いまで、いろんな方が来てくれました。

これから、どんぐり企画とお二人それぞれは、どのように進んでいくのでしょうか

鳴海:私には仕事があるので、お芝居は平たく言えば趣味のようなものです。好きなことを好きな人と作り、それをある程度たくさんの人に見ていただくということを、5年10年、変わらないスタイルでやっていきたいです。参加する役者や、脚本を書く妹が、そこから発展して社会に評価してもらったり、どんどん成長してくれたりすると嬉しいなとは思います。生活に直結していないからこんなことを言えるのかもしれないけれど。

菜歩:今、演劇をしたいと言っている兄がいて、演劇ができて脚本が書ける場所があるという、私にとってはとてもおいしい状況なんです。どんぐり企画の方向性については、言い出しっぺの兄が好きなようにすればいいかなと思ってます。例えば、大きくなりすぎると、これまで参加してくれたような社会人が演劇をする場がなくなってしまう。だから、今の規模感でいいんじゃないかな。
どんぐり企画とは別に、自分自身がこの先演劇にどう関わるのかは、これから考えていきたい部分です。

”お話ありがとうございました。本に親しんで育った2人が思い思いに進み、いつしか演劇に関心を持ち、交わってどんぐり企画を立ち上げたという経緯、とても興味深かったです。社会人と学生、まだまだ状況は変わっていくと思いますが、その時々の生活とのバランスを取りながら、時に冷静に、時にどん欲に、作品を作り続けていくのではないでしょうか。”(聞き手:小澤杏実、戸島由浦)

諏訪部 佐代子(SUWABE Sayoko)

大学院生/画家

WEB:https://www.sayokosuwabes.com/

プロフィール

2015-2019 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻

2019- 東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻

2022 メルボルン大学美術研究科 ヴィクトリアンカレッジオブアーツ 交換留学

絵画作品のほか、インスタレーションを主軸として、パフォーマンスや彫刻など幅広いメディアで問いかけている。

今、何をしていますか?

今、オーストラリアに留学しています。

大学に行く半年を終えて、そのあとは、作品制作や仕事などをしながらオーストラリアのアーティストコレクティブでインターンシップをしています。

2017年から交換留学に来たいと計画していて、2020年にオーストラリアへ来るつもりが、感染症拡大の影響でオーストラリアの国境が閉じてしまい、3期ほど交換留学が延期しました。その度に学期を延長するべきか悩んで悩んで、ようやく国境が開いた2022年2月21日にオーストラリアへ来られた!という感じ。

交換留学の奨学金が在学中でないともらえないため、アルバイトやアートプロジェクトを日本でしながら最後の最後まで粘って学生で居続けさせてもらい、今に至ります。

学生であることは権利だと思っています。交換留学生だからこそアクセスできる資料や体験がどうしても欲しかったのです。最終的にオーストラリアへ来ることができて、待っていた時間は無駄じゃなかったとようやく思えるようになりました。

留学する前はどんなことを考えていましたか?

留学に行けなかったコロナ中は、自分のネガティブな部分をめちゃくちゃ見つける機会になりました。元々続けていた日記とは別に、その日に絶望したことを置いていこうと、絶望ノートと希望ノートというのを書きはじめました。

最初はとにかく行きたかったところに行けない絶望感が強く、絶望ノートを書いていたのですが、担当教授や友人に、それより希望ノートを始めた方がいい!と明るく言われて新しくノートをつくりました。今日は西日がきれいだった!とか、ちゃんと上着を掛けた!とかそういう小さなことを書いていくノート。オーストラリアでも続けています。

就職をするかどうするかも一時は迷いました。定期収入が無いと生きていけないので…。就活も一度真剣に考えて、髪も黒くして、写真もとって、履歴書も埋めて、会社も調べて。でも、失礼だなと思っちゃったんですよね。会社のことを一番に考えられないのに、入っていいんだろうか、って。留学もしたいと思っていたわけだし。週5で働くと、制作の時間も取れないし、時間を取って海外に学びに行くことも難しいし。だから考えに考えきってやめました。

同じように留学が延期になっていた君島と、荷物をおく場所としてNULLNULL STUDIOの構想が始まりました。そのうちに、絵も描けたらいいじゃんってことになって、スタジオ兼展示スペースになっています。自分たちのベースになる場所、自分たちのたつ地面がある場所ということは大きかったです。おかげさまで取手VIVAでプロジェクトをやる機会もいただけました。

なぜオーストラリアに?

オーストラリアに来たのは、もともと哲学の本や評論文を読むのが好きで、そのなかで出会ったとある先住民部族の考え方に惹かれたことがきっかけです。

過去とか未来とか昨日とか明日はなくて、先祖や子孫はみんないっしょくたになって、今という時間だけに漂って生きているという考え方。私も昔から似たことを考えることがあって、それってけっこう真理に近いんじゃないかと思って惹かれました。

自分っていう存在が部族と同一化している、というのもあって。それを聞くと、自分のアイデンティティって何だろう、ってなるじゃないですか。そういうところに刺激をもらいながら制作をしたりしています。

あと、教育と社会と芸術がすごく近くて柔軟だなと思っていて。アートの敷居が高くなくて、人とアーティストがすごく近い位置にいる、その現場を見てみたいなと思いました。今お仕事をさせていただいているアーティストコレクティブで、そういった学びたかったことを学んでいます。

キャリアということについてどのように考えていますか?

自分の人生については、自分が心に響く何か言葉が欲しくて人に助けを求めるとか、限られたタイミングのなかで、悩めることは悩み切っています。そのたびにノートに書きだすとか。「アーティストのためのハンドブック」が高校生の時からのバイブルです。

数年前、not for saleと題して、どうやってアーティストとして生きていったらいいかを、周りの人たちと会話する中で見つけていこうというプロジェクトをしたんです。それを発展させる形で、最近、ドイツの現代アートの祭典「ドクメンタ15」のサマースクールで、海外の大学院生や博士の学生に対してワークショップをしました。参加者の特技を他者から評価してもらう、っていうことをして。結構面白い会話になって、すごくいい経験になりました。

天邪鬼なんですよね、反対されるとやりたくなっちゃうから、こうなっちゃったって感じ。ある景色を目指して山に登るということができない。だから、先が見きれないこの道を選んだのは必然だったのかなと思います。自分がやりたいことはどう生きたって決まってるので、一つずつやりきっていきたいです。

これからどうしていきたいですか?

アイデアはいっぱいあって、自分が作りたいものにずっとワクワクする人生を送りたいなと思っています。何かものと出会った時に起こる化学反応みたいなもの、考えの転回を制作と展示の中でずっと求めている気がします。私だけでなくそれが誰かの転回に繋がってくれたら、作家としてそれ以上のことはないと思います。最初の2~3年は海外と日本を行き来しながら制作していきたいです。

私の美術の原点は子供の時から習っていた現代芸術家の先生。
もう亡くなっちゃいましたけど。私に人を驚かせるような変なものを作りなさいといつも話していた先生でした。
私もいつか子どもたちに、こんな適当な変な大人がいていいんだと思ってもらえるような、そんな存在になりたいですね。

NULLNULL STUDIO

君島英樹と諏訪部佐代子によるアーティストコレクティブであり、共同のスタジオ兼展示スペース。

ACCESS:茨城県取手市井野1-7-7サンハイツ取手101

     取手駅徒歩10分(ピンクのカーテンが目印)

  

君島英樹(KIMISHIMA Hideki)

図工・美術非常勤講師/画家

WEB:https://www.kimi-artwork.com/

プロフィール

1995年生まれ 神奈川県茅ヶ崎市出身

2015.04  東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻入学

2019.04  同大学院美術研究科油画専攻(壁画分野)入学。2022.03 同大学大学院 壁画第二研究室修士課程修士課程 修了

2021年2月に茨城県取手市にNULLNULL STUDIO(共同アトリエ)をオープンし、現在、取手市を拠点に、都内で多くの展示に参加中。

茨城県内の中等教育学校にて、非常勤講師として図工・美術を教えている。

どうして先生になったのでしょうか?

制作がしたくて修士に進んだ後、生きていくうえでお金どうすりゃいいんだろうと思って。でも朝から晩まで働くって無理だなと思って。非常勤の先生になりました。 

企画で知り合った人でもともと教員だった方がいて、「教員やりたいんすよ」、と話していたらだんだん本当になったんです。「やるならやるでしょ」と、県の教育委員会に書類を持って連れていかれました。「郵送で良かったんですけどね」とか言われましたけど。(笑)

働いているのは週3日ですね。全然制作できないな、とは思います。自分で全部準備しないといけないし、成績もつけないといけないし。よりよい美術室にしたいし。なかなか難しい。

でも、教員をやり始めて、興味のない児童、生徒たちにどう、美術をするうえで大事なことを伝えられるかな、というのを意識するようになりました。今は「観察をしよう」ということを伝えてます。どうものをみて表現するか考えさせるとか、早く終わらせてしまう子なんかはどんなところにこだわりがあるかなんか尋ねるようにしています。

美術の道に進もうと思ったのはなぜですか?

高校の美術の先生にお世話になって、僕もこうなりたいと思ったことで美術の先生を目指しました。

運よく東京藝大に受かって、、美術の先生を目指して、大学4年時に教育実習に行きました。でも、そこで先生の理想と現実を目にして、疑問を感じたところがあって。考えたら先生って、20代前半で卒業してなるんですよね。それでほんとに指導できるのかな…と。教えられるようになるように、社会をもっと知っておきたいと思いました。

ちょうど同じころ、作品制作もやりたくなってきて、大学院に進みました。

NULLNULL STUDIOを作ったのは自身にとってどんな経験でしたか?

中国留学を計画していたところ、感染症が流行してしまい、延期になってしまい、休学中どこで制作するかと思って、友人と共に、NULLNULL STUDIOという、スタジオ兼展示スペースを作る計画がうまれました。スタジオをつくったのはお互いにとって大きかったです。いつでも制作できる環境があるのは大きいと思います。

かなりの数、物件を内見に行きました。いい場所を見つけたけど持ち主が分からなくて法務局へ行ったりもしました。一から壁を立てるというのがいい経験になったと思います。

内装を自分たちで、施工してもいいと言ってくれる賃貸なんて、なかなかないですよね。借りたときは大家さんが直接管理している建物で、おばあちゃんがオーナーでほんとに感謝しています。残念ながらオーナーさんが代わり今は不動産が仲介するようになりました。今は、不動産屋が仲介してます。

自分たちで空間を作り直すっていうのはある種アーティストにとって必要なことだなと思いますね。作品づくりでの素材選びじゃないですけど、壁を立てる上でどういう素材が必要なのかとか、工具とか、ネジとか椅子とか… そういういままでずって適当にやってたものがやっと理解できたというか。

今後どうしていきたいですか?

まずは、コロナで行けなかった中国留学かな。学校を急にはやめられないけど。

去年1年、授業準備に時間を費やしてしまったので、制作する時間を確保したいですね。ストレスなく価値ある仕事にしないとなと思っています。何はともあれ楽しく仕事したいな(笑)

将来的には自分でななにか起こしたいな、と思ってます。展示しているかは分かんないですけど。40~50歳とかになったら、カフェ兼ギャラリーみたいな、自分の場所を持っていたいです。

優柔不断で締切り30分前まで悩んでいるタイプなんですけど、段々と知り合うジャンルや人が増え、相談できる相手やイメージが広がって、大人になったな、と思います。

NULLNULL STUDIO

君島英樹と諏訪部佐代子によるアーティストコレクティブであり、共同のスタジオ兼展示スペース。

ACCESS:茨城県取手市井野1-7-7サンハイツ取手101

     取手駅徒歩10分(ピンクのカーテンが目印)

新野 将之(NINO Masayuki)さん

打楽器奏者/アウトリーチ

プロフィール

昭和64年生まれ。埼玉県出身。15歳の時に打楽器と出会う。

国立音楽大学打楽器科を首席で卒業し、矢田部賞を受賞。読売新人演奏会に出演。
イタリア国際打楽器コンクール、JEJU国際金管打楽器コンクール、日本国際打楽器コンクールの全てにおいて最高位を受賞。その他にも受賞暦多数。

Black Swamp Percussion社・Thunderbolt percussion社エンドーサーアーティスト。東京コンサーツ所属アーティスト。地域創造公共ホール音楽活性化事業登録アーティスト(おんかつアーティスト)。その他、各種協演や、アンサンブルグループ活動、ソロCDのリリース、ソロリサイタルなど、数多くの舞台で活躍している。

大学を卒業してから、どのように活動を展開したのでしょうか?

大学卒業した辺りは仕事がなくて、いろんなバイトを掛け持ちして練習してっていう生活が、26、27歳くらいまで続いていました。

関わる演奏会は全部自主企画で、ホールを予約して雑務も一人でこなしてやっていました。友達とグループを組んで企画して、客席はみんな身内だったりしました。

コンクールでは引っ掛かることも多くて技術的なものは身に付いてきていたと思いますが、全然仕事には結びつきませんでした。なんで実力があるのに仕事が来ないんだろうって思っていました。

そんな時、バイト先にベンチャー会社の社長みたいな人が来て、「一銭にもならないなんて、誰にも貢献できていないってことだよ」と言われたんです。そこから、自分の技術をどうやって社会に還元していけばいいんだろう、という発想に切り替わりました。

なぜ今のお仕事に?

地域創造というのを見つけて、おんかつというアウトリーチプログラムのオーディションを受けてみました。それがぼくの第一歩でした。

それまで仕事と言うと、依頼されて引き受けて行くというイメージだったんですけれども、アウトリーチでは現地の先生や担当の方と話し合って、プログラムを作っていけます。

それはかなりボクに向いていて、「自分のやってきたことが社会に還元されているなあ」と感じられて、やりがいがあります。

最近では、アウトリーチにはまりすぎて、本当のリサイタルの時に、バランス感覚で悩むこともあります(笑)分かりやすくするとエンタメの方向に寄っていきやすいですが、主軸はアートでありたいなと思っているので、そのバランスを保つのが難しいところですね。

やりたいことと社会が求めていることの重なる点を見つけるのがアウトリーチなんだと思います。すごい前衛的なパフォーマンスでも、じゃあこれを、一般の子供たちにどう見せようかと考えるのは大事です。

将来的にギャラリーやホールに来てくれる子がいるかもしれない種をまきながら、自分のしている音楽が、どう社会で重要かを落とし込めたらいいんじゃないかなと思います。

※おんかつ…市町村等の公共ホールに、演奏家とコーディネーターを派遣し、コンサートとアクティビティ、演奏交流プログラムを実施する事業。

活動が広がり始めたきっかけ

少しずつ少しずつ、「あのコンサート聞いたよ」とお声がけ頂いたりして、広がっていったように思います。すぐには結果にはならないので、ネチネチと「ここにいるよ」とやらないと認知されないです。

自分の場合、自費で、エンジニアさんに持ち込みでCDを出させてもらったことが、一つのきっかけにはなりました。

レコード芸術史という雑誌でいい評価を頂いて、ラジオのお話を頂いたりとか、
CDを名刺代わりにあげたら、聴いてくれた人がコンサートを依頼してくれたりとか…
そうして覚えてもらうことで、活動が広がりました。

その後、おんかつアーティストにもなって、方向性が見え出しました。
今では、事務所に所属しており、事務所が仕事を持って来てくれたり、自分のところへ依頼が着たり、仕事の形態は様々です。

多い時は毎週違うコンサートに出ていたりします。金銭面的にも、やっと生活できるくらいまで来たな、と感じています。

今後について考えることを教えてください。

海外公演を増やしていきたいです。実はオファーを頂けそうだったところに、コロナ禍になり、なくなってしまったのです。

自分の活動として、教育や文化を広めていくという主軸と、アーティストとして国際的にやっていきたいという両方の側面があります。演奏を通して社会に貢献していきながら、活動をどっちにも伸ばしていきたいというのが、これからの展望です。

キャリアを振り返って、後輩たちに伝えたいことを教えてください。

いろんなキャリアの形があるから一概にこれがいいとは言えないけど、一つ言えるのはやめないことですね。10年続けたらきっと何かになると思うけど、それまでに見切りをつけてしまう人が多いと思います。

続けてさえいれば、意欲的な活動であればなんでもプラスに働くと思います。
生活との両立が難しいですね。そこを何とかする方法を見つけられるといいです。一回就職してお金をためてから活動を始めるというのも選択肢としてありだと思います。

大学卒業後、先が見えない不安があるから大学院に言ったり留学したり、社会に出るのを先延ばしにしたり、いろいろな選択肢があると思います。
何をするにしても、社会に出たときに何ができるか考えたときに、実力を身に付けておくとか、何かしらの方向性を持っておくことは大切なんじゃないかな、と思います。
いろんなものに触れて、何が向いているかを考えて、最終的に自分の適性を見定めてやっていくのがいいんじゃないかな、と。