会社員(音楽業界)/鍵盤奏者

プロフィール

1998年 奈良県生まれ。
2022年3月 東京藝術大学音楽環境創造科 卒業。

在学中からその後現在にかけて、レコード会社等で働きながら、ヒルネ逃避行でのバンド活動、その他演奏活動を精力的に行う。

現在、何をしていますか?

レコード会社で音楽の制作や宣伝周りの仕事をしています。
仕事と並行して、「ヒルネ逃避行」というバンドに、キーボード担当で参加しています。

今の業界に入ったきっかけを教えてください。

音楽専攻だったこともあり、もともとPAのアルバイトをしていました。

2年生の時に研究室のメーリングリストで流れてきた、音環の先輩が立ち上げたライブハウス・アイドル現場のPAの募集に応募したのが、ある意味、今の業界の仕事につながる最初のきっかけですね。

PA以外にもピアノ演奏や仮歌、楽曲提供などを任せていただけることが徐々に増えていき、だんだん”仕事”っぽくなっていった感じです。

なぜ今のお仕事に?

バイトをきっかけに、学生のうちから色んな現場や仕事があるのを知っていきました。

その経験を踏まえて、様々なジャンルの音楽を取り扱っているレコード会社を中心に、音楽業界で働くことを目指して、就活したりしました。

でも、そもそも新卒採用がなかなかない業界だし、コロナの影響もあり、もう1年大学生をしながらよく考えることに決めました。

今までを振り返って思うことがあれば教えてください。

自分はどちらかというとゼネラリストで研究者タイプじゃないなと分かっていたし、就職するだろうな、とは、入学する前から思ってました。

(いわゆる就活らしい)就活は完璧にはできませんでしたが、バイトきっかけの仕事を通じてほかの会社の人に出会ったり、現場でアーティストに顔を覚えてもらったり、結果として就職につながる行動は結構していましたね。

キャリアのことを考えてそうしたっていうより、自然とそうなったというか…。自分ができるPAのことをしたり、演奏は好きだからピアノ伴奏を引き受けたり、そもそも音楽が好きだから仕事を続けたりして、結果としてこうなっている、という感じです。

学生時代は、行動はバタバタと迷走したこともあるけど、気持ちに迷いはなかったと思います。

キャリアについて考えることを教えてください。

(例えば、)公務員は比較的安定していて安心だと思うけど想像がつかないとか、
先生には憧れるけど向いてないなとか、
自分に向いてないのを省いていって、でも、絶対に譲りたくないところ、私で言う「音楽の仕事をする」ということの中でできることを選んできた感じですかね。

個人として、会社以外の人とも人脈をつくり、働く選択肢を持っておくことが、今の時代で音楽の仕事を続けるには重要かなと思って頑張っています。

研究者/アーティスト/大学非常勤講師

取手校地30周年記念展

プロフィール

1994年東京生まれ。2016年に米国・カリフォルニア大学デーヴィス校農業環境科学部国際農業開発専攻・文理学部美術史専攻(二重専攻)卒業。

都内でメーカー勤務を経て、2019年に東京芸術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻入学、2021年に同修士課程修了。

その後は東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科特任助手を経て、現在は非常勤講師。

現在、何をしていますか?

大学院で、文化庁から受託したプロジェクトの特任助手という役職にあった…のですが、今年度の事業について、年度が始まる1週間前に事業全体の不採択が通達されショック!その後、今は非常勤講師として働いています。

これとは別にありがたいことに、自分が究めている地域の研究を、地元の方やほかの地域でも、発表する機会を設けてもらっています。ありがたいことですね。大学で務めていたような役職があるわけではないですが、これも何かより大きな動きの「助手」と呼べるかもしれません。

また、知り合いからの日英翻訳、通訳の仕事をいただいたり、進路・プレゼン・ライティングの指導をしたり、知り合いの農家や農業大学校のお助けをしたりもしています。お代(やお米やお野菜)をいただきながら勉強させてもらっています。

キャリアについて考えることを教えてください。

「安定したキャリアほど良いものはない」と長らく信じ込まされていた気がします。

しかし、いざ目の前の将来が見えなくなると、急に感覚が研ぎ澄まされるのが分かります。その生きている実感がたまらないですね。

キャリアは、合理的な意味では、人間社会において生命維持のために必要なものなのだと思います。しかし、自分にとっては、「ページをめくった先でストーリーがどう展開するかのワクワク感」がキャリアの本体なのだと思っています。

こう思えるのは、今までの実績や経験が自信というかたちをとって陰で後押ししてくれているからでしょうか。

ただ、自分の力でより強く漕ぎ続けなければ、いずれ流れに負けてしまいます。どこかで現状に甘んじようとする気持ちへの警戒心は強く持っていたいと思います。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

美術史専攻の学部を卒業後、会社員を2年半やっていました。ある時、上司の上司に当たる方が面談の場で、
「君はあと5年したら先輩の彼みたいになり、10年したら課長の彼になり、20年したら部長の彼になるかもしれない…」
と、自分がどういうかたちで昇進してゆくのか、とても具体的に例示してくれました。

励ましのつもりでおっしゃってくれたのは間違いなく、今でもありがたいお言葉だと思います。しかし、それまで自分が会社のためにと暗中模索していた中で、急に目先の道筋がパッと誘導灯のように照らされた時、なんだか急に冷めていくので、自分でもびっくりしました。

その頃私は会社の労働組合委員もしていて、たまたまとある社内方針をめぐって対立があったため、組合の本部と職場の事務所を行き来していました。そんなある日の特急車内で、クイズ感覚で芸大の入試問題を解いてみようと思ってふと調べてみたのです。そしたら、とても面白そうな大学院の専攻を見つけてしまい…、その勢いで出願手続きをしました。

後日談ですが、合格発表の日、自分が受かったことを確認した後に向かった工場では、職場委員は徹底抗戦すると伝えてくれました。これはもう職場の仲間たちのために、大学院入学のために辞める前提で矢面に立とう、そう決意したのでした。

大学院では、郊外というよりもはや農村地帯の中の山に隠されたようなキャンパスに通うことになりました。そこで、なぜこの辺鄙な場所にキャンパスがあるのか、それをまず知ったうえで、色々な表現を試してみようと思いました。4月入学でゴールデンウィークくらいには判るだろう、作品作りはそれからだ、と。

結局のところ、今でも自分は、「なぜその場所にキャンパスがあるのか」を、調べ続けています。そこに訪れた学生や教職員誰しもが疑問に思っているはずで、このテーマに興味を持ってくれる方も多いです。そのうちの誰かは既に調べあげて発表しているだろうと未だに思っているのですが…、まだ見つけられていません。

キャンパスと周辺地区にまつわる語られてこなかった歴史を作る試みが、修了制作と論文になりました。修士の2年目で発生したコロナ禍では、郊外のキャンパスと周辺地区について、ネット上にある新聞記事をはじめとした記述をまとめました。調べた内容は大学史にも載っていない(載せていない、が正確と後から知りました)ので、まずは学生を終えるというタイミングで一旦世間に出しました。まだこの活動は続けてゆくつもりです。

これからどうしていきたいですか。

この問いへの答えをあまり言葉にして定めたくはないですが、あえて言うならということで話させてもらいます。

かつて会社員時代、自分が卒業した高校の後輩に、「あなたは今の会社にいては勿体ないですよ」と言われ、衝撃を受けたあまりに返す言葉を失ったことがありました。

その後輩は当時高校生でまだ大学に行ってすらなく、なんと生意気で大胆な発言だっただろうと今でも思いますが、その人にはそう見えたのでしょう。自分に続く人に同じような発言をまたされないように、「生き方を見せないといけない」、という自負を持っています。

ドラマー

プロフィール

1983年生まれ。
2005年に日大の芸術学部を卒業した後、高校時代にはまだなかった藝大音楽環境創造科に学部から入学。卒業後は、大学院 音楽音響創造科に進学。
菊地成孔のバンド『DCPRG』への参加など、ドラムの演奏活動を行う。
DCRPGの脱退以来は、「割と気ままにドラム叩いています」とのこと。

現在、何をしていますか?

フリーでドラムを叩きつつ音環の助手したり、仏教についての演劇を国内外で行なっていたり、ミャンマーの伝統音楽の研究を科研費*もらってやったりしてます。

*科研費…科学研究費補助金の略称。文部科学省と日本学術振興会による、日本の研究者の自由な研究を発展させることを目的にした助成事業。

大学時代にはどんなことを考えていましたか?

ぼんやりと、「良いドラム叩いて人からそこそこ褒められたい」って思ってました、多分。

なぜ今の生き方に行きついたのでしょうか?

途中で他人からの「いいね!」とかそういったものと、自分が出したい音との間にものすごい乖離が生まれてしまって、それ以来他人の評価はどうでもいいので、少しでももっとリズムに近づきたい、と思うようになりました。

なのでもう自分のドラムが金になんなくてもいいや、というスタンスで生きてます。
幸いにもたまに金になったりしてますが…。

キャリアについて考えることを教えてください。

昨日の自分よりも良いドラマーになること、自分が納得できるドラム叩いて死ぬこと、

それだけです。

これからどうしたいですか?

もっとドラムうまくなりたいです。死なない程度の金とリズムがあれば、もうそれでいいかなって思っています。

アート教室/画家

アトリエコリーヌ:https://atorie-colline.amebaownd.com

プロフィール

2014年 地域新聞社記者
2015年 アトリエコリーヌ始動
2021年 アトリエコリーヌ展示会
     いたばし画廊共同代表

現在、何をしていますか?

2年ほど前から、「アトリエコリーヌ」というアート教室を開いています。

知的障がいがある方もない方も、制作を通してつながり、自分らしくいられる場所を目指しています。

絵は、どのように始めたのでしょうか?

小さいころから絵を描くことが好きで、母がほめてくれたことで自信にもつながりました。オリジナルの絵を描く楽しさを実感したのがその頃だったと思います。

小学生から近所で油絵を習っていましたが、習い事としては特に好きというわけではなかったです。

進学や就職の際はどのように考えていましたか?

私は、美大には結局進みませんでした。成長するにつれ、技術力が求められて、自信がなくなってしまって、ゆるく、好きに続けられたらいいかなと思っていました。

大学卒業後は一般企業に就職して、事務を長くやっていました。当時は、創作をしたい気持ちに蓋をしていたところがあったと思います。

どのように今の活動にたどり着いたのでしょうか?

子育てと仕事の両立で悩んだのがきっかけで、地元の新聞社や区議会議員事務所で働くようになりました。地域で働く中で、パステルアートや臨床美術士という民間の資格を受講していたこともあって、アートを通じて人とつながる機会が増えていきました。

そのうちに、アートの楽しさを一人でも多くの人に伝えたいと思うようになりました。

教室を始める時には、どのように考えていましたか?

初めは、看板を掲げるほどの自信はなかったです。でも、自分らしい活動の時間を持ちたいという気持ちはあり、周りに勧められたのもあって、思い切ってやってみようと思いました。

教室を開く場所や最初の生徒さんとも人づてにつながることができ、最初は月一回くらいのペースで、緩やかに始めました。人のつながりは大事ですね。

これからどうしていきたいですか?

去年、教室メンバーの展示会をやったところ、思いのほかたくさんの方が来てくれました。知的障害の方の作品を観る機会は少ないし、描いている方にも発表の場は大事だと思うので、今後も続けたいと思っています。

障害を持つ方に限られたコミュニティではなく、絵を通してたくさんの人たちがつながって、輪が広がったらいいなと思います。

会社員/作曲家

プロフィール

1995年 埼玉県東松山市生まれ、千葉県柏市育ち
2011年 《作曲の会「Shining」》入会
2012年 高校生作曲集団《Con brio!!》を設立
    高校卒業までに2公演を企画・開催

2014年 東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科 入学
在学中、学内で《専攻外吹奏楽の会》を発足。その他、研究としての作品制作、映像作品への音楽提供、学内外での演奏会企画・開催など積極的に活動。

2018年 エンタメ業界の会社に入社
2018年 21世紀の吹奏楽 第22回“響宴” 入選
2019年 第52回JBA「下谷賞」 受賞
2019年 BS-TBS「土曜デラックス」OP音楽を担当
その後現在にかけて、会社員・作曲家として活動中

現在、何をしていますか?

新卒でエンタメ業界の会社に入社し、採用・社内教育など主に人事関係の仕事をしています。
また、休日など空いた時間で作曲家としても活動しており、主に吹奏楽や管楽アンサンブルの作品を制作しています。そこから派生して、高校の吹奏楽部の指導や、演奏会のプロデュースなども行なっています。

キャリアについて考えることを教えてください。

Web上で様々な投稿・配信方法が発達している現在、その人のバックグラウンドに関わらず誰にでも表現活動のチャンスがあると思います。

また、『二足の草鞋を履く』という言葉には否定的なイメージが付く場合もありますが、これからの時代、草鞋の組み合わせ方がその人の個性として尊重されるようになるのではないでしょうか。

なぜ作曲を始めたのでしょうか?

中学から吹奏楽部で学生指揮を務めていて、それをきっかけに多くのスコア(吹奏楽全体の総譜)を読むようになりました。そのうち自分でも作れるのではないかと考え始め、部内で演奏するための楽譜を書き始めました。

その後、高校1年の時に入会した《作曲の会「Shining」》という作曲家集団で、その当時に大学生・大学院生だった会員から、進路選択やキャリアの考え方について様々な影響を受けました。

大学進学時にはどんな考えを持っていましたか?

当初は、作曲家として活躍することを夢見て東京藝術大学の作曲科を目指し、高校1年から受験に向けた準備を始めました。しかしその後、作曲団体での活動に注力するにつれ、作曲そのものの学習を思うように進められなくなる時期がありました。

そこで改めて自分のやりたいことを整理した結果、『誰かと一緒に何かをプロデュースして、その中のコンテンツの一つとして自分の作品がある状態』を作りたいのだということを漠然ながら考えるようになり、東京藝術大学の音楽環境創造科を目指すこととなりました。

就職する時にはどんな考えを持っていましたか?

高校時代に設立した作曲集団《Con brio!!》のメンバーの中には、私が企画した演奏会をきっかけに本格的に作曲家を目指すようになった者も複数います。私には、ある意味で彼らを道連れにしてしまった責任をどこかで取らなければならないという思いが強くありました。そのためにまず、自分は作曲を職にするのではなく、音楽芸術全体を支え活性化させる『裏方』に回ろうと決心し、結果として今の会社にご縁があり就職することになりました。

現在、《Con brio!!》のメンバーはそれぞれの道で活躍し始めています。いつか、今度はより大きな舞台で、一緒に何かを作ることが夢です。

これから、どんなことをしていきたいですか?

エンタメ業界の裏方として、また、作曲家として、今後も二軸のキャリアを歩んでいきたいと考えています。
表現者の目線を持っているからこそ生み出せるアイデアがきっとあると思います。芸術と社会の架け橋として様々な方に頼っていただけるような存在になりたいです。

KondoNoritaka

IT系会社員/ピアニスト

プロフィール

1995年生まれ。オーストラリア生まれの千葉県柏市出身。
幼少期から多数の演奏・受賞を経験し、東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校へ入学。
2015・2017・2019年 ラ・フォル・ジュルネTOKYO出演
2016年 第17回ショパン国際ピアノコンクールinASIAコンチェルトC部門アジア大会入賞
2017年 第11回八潮市新人オーディションにて審査員賞受賞。その後2018年同市でリサイタル開催。
2018年 ベトナムにてベトナム国立音楽院と藝大によるVNAM × GEIDAI Collaborative Concert に大学推薦で参加。
その他多数の出演を経験。
​ウィーン国立音楽大学で開催されるウィーンナームジークセミナーに受講費免除で参加。
東京藝術大学音楽学部を経て、2021年3月、東京藝術大学大学院室内楽科を卒業。
現在は都内でSEとして働きつつ、演奏活動を行っている。

現在、何をしていますか?

会社ではSEとして、アプリの開発、プロモーション、運用をしている課に所属しています。私はプロモーションがメインです。
ピアニストとしての活動もしています。会社が副業禁止なこともあって、先日は投げ銭チャリティコンサートをしました。無料で気軽で、奏者も聞き手も楽しめる演奏会をしたいですね。会社の人も応援してくれていて、仕事以外の活動も受け入れてくれる雰囲気を感じます。

これまでの経験が役立つ場面はありますか?

ずっとお客様を相手に演奏をしてきたからか、どういう人に、どういう価格で売るか、お客様を相手に売るっていう考え方に、比較的慣れている気がします。私は演奏側だったけど、その過程で舞台の裏側にも首は突っ込んできたので、ユーザー目線過ぎないのもいいところかなぁと思っています。 
役立つ引き出しは他にもいろいろありますね。計画的に動きたい性格とか(笑)

なぜ就職したのでしょうか?

何年も藝大にいて先輩を知っているのに、あまりに満足できる収入を得て生活できる例を見れなくて。私は、お金がなくても頑張れるタイプではないので、フリーランスで演奏家としてやっていくのは無理があるなと思ったんです。新卒というカードはデカいので、安定を求めて就職するなら今だと思いました。 
『手に職』であるピアノと、ITは通じる部分があると思います。将来性のある仕事ですし、ちゃんと教育してくれる会社に入ればこの先の選択肢が広がるなと思って、就職しました。

これから、どんなことをしていきたいですか?

長期的な目標はあまり立てないほうですが。とりあえずは数年間、本業とピアノ、二つのことにやりがいを持って活動したいですね。
音楽にITを活かすという意味では、チケットとか、プログラムとか、今はアナログが普通のものを電子化してみたいです。逆に、ITに音楽を取り込むという意味では、職場での小さな振舞いの積み重ねで、『音楽業界に向けてのIT進出もアリなのかも』と周りに思わせていきたいという野望があります。

何かモットーはありますか?

やりたいと思ったことにすぐに動くようにしています。何かのためにってなった瞬間に、やらなきゃってなるから、その前に動きたいですね。頑張ったらいつの間にか手札が増えていて、そしたらいつの間にか選択肢を選べるようになっていて。その選ぶ時が楽しいです。

  • AriumiYukari

箏曲演奏家 / 大学院生

プロフィール

大阪府和泉市出身。東京藝術大学音楽部邦楽科生田流箏曲専攻を卒業し、卒業時には皇居内桃華楽堂にて御前演奏を務める。東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程を修了。
中学高校時代は真っ黒に日焼けしながら、コンクールに出るなど、部活動と音楽活動の両方に全力投球。現在は、古典曲から現代曲まで幅広く演奏を行うと同時に、学校公演やアウトリーチの後進活動にも力を入れる。
2008年、全国小・中学生箏曲コンクール【小学生の部】銀賞を受賞。
2019年、K邦楽コンクール 【現代部門 一般】特別優秀賞(第1位)、宮城道雄記念コンクール【一般の部】第3位を受賞。
宮城社教師。箏曲宮城会、同声会、森の会、深海邦楽会各会員。一般財団法人令和4・5年度公共ホール邦楽活性化事業登録演奏家。和楽器集団「鳳雛」、「和楽器オーケストラあいおい」、「箏アンサンブル十色」メンバー。

現在、何をしていますか?

演奏活動はもちろんのこと、学校公演やワークショップなどの企画立案を積極的に行っています。
他にも、レッスンや演奏会の裏方をしています。令和4年度5年度は、一般財団法人地域創造にて経験豊富なコーディネーターと共に公共ホールの活性化事業に参加致します。

キャリアについて考えることを教えてください。

将来のキャリアについては、ずっと悩んできましたが、決めなければならない分岐点になると、自ずと結論は出て来てその方向へ進んできました。 何か一つを極めることも凄く魅力的ですが、私は飽き性で色々な事に興味があるので、自分がどういう人物になりたいかを指針としてこれからも歩んで行きたいと思います。

身を置く環境によっても、価値観は変化していくものだと思うので、その刺激を楽しみながら人生が送れりたいものです。叶えられるかわからない野望は、『芸術に触れられる複合施設を作る』ことです。実現へ向けて頑張ります。興味がある方は、是非お力お貸しください!!

なぜ箏を始めたのでしょうか?

この道に進んだきっかけは、母が地元で箏を教えていたことですね。でも、本当に小さな教室でしたし、母も私に進んで欲しいというわけではありませんでした。

そんな折に母の師匠(私の父の叔母)が亡くなり、追悼演奏会で、私は少しだけソロ部分を演奏しました。目立ちたがりだった私としては、ホールでの響きと空間がとても印象に残りました。この経験が箏へ本格的に取り組むきっかけの一つといえるでしょう。

進学時にはどんな考えを持っていましたか?

東京藝術大学進学は、小学生の頃から決めており、途中横道に逸れたりはしまし たが、私の長年の目標でした。行きたい理由として、自分が見たことのない世界を見た い、洋楽器や美術や色々な人と知り合いたいと思っていました。 その後、予定にはなかった大学院に進学しました。理由としては、自身が時間をかけないと出来ないタイプだと改めて感じ、4年では足りなかった、ようやくほんの少し 何かが見えた気がする、などの気持ちから決断しました。

これから、どんなことをしていきたいですか?

今の目標としては、箏曲界が少しでも身近にな存在となる”橋がけ”を自分の出来るところから広げていきたいです。 また、業種を問わず優秀な方々は本当に沢山いるので、そういった方々と触れ合い続けて、少しでも何か得続けることができたらいいなと思います。そして、自分が面白いと思えることに失敗を恐れず挑戦していきたいです。

いつか、みんなと何か大きな形に出来るようにキャリアを積んで行きます。

FujishigeNanako

国立新美術館夜景

画家/博物館アテンド/アート教室スタッフ/色鉛筆ワークショップ講師

WEB:http://furu-portfolio.sunnyday.jp

ターレンスクラブ記事「プロの机」:https://www.talens.co.jp/talens_club/prodesk/index.html

新美術新聞「画材考」第99回:http://www.art-annual.jp/column-essay/column/76844/

プロフィール

1980年 埼玉県生まれ。
1985年~1990年 アメリカ合衆国在住。
1995年 高校の美術部に入部。
1998年 美大受験のため、仮面浪人するも、不合格。高校からつながっていた4年制大学(立教大学)へ進学。文学部内の芸術系コースに転科。
2003年 大学卒業後、小学校英会話講師(AET)になる。人に教えることの面白さを実感し、その後の色鉛筆ワークショップ講師の下地となった。
2006年 武蔵野美術大学通信教育課程に編入。2年間在学。
2010年 東京国立博物館の運営のアルバイトを始め、9年間続ける。この仕事を始めた前後から、改めて作家として活動しようと決意。色鉛筆と蛍光ペンを組み合わせた独自スタイルを編み出し制作。
2010年~2018年、月光荘ムーンライト展に毎年入選。
2019年、2021年 近代日本美術協会展入選。
2018年~2021年 東京日本橋Art Mall にて4回の企画個展開催。
他多くの入賞、企画個展を重ね、現在に至る。

現在、何をしていますか?

画家としての活動をメインにしています。アルバイトで基本の生活費を稼ぎ、プラスアルファとして年に2回ほどの個展やそれ以外の展示、注文制作、既存作品やアートグッズの注文などの収入を得ています。

キャリアについて考えることを教えてください。

美大に行くことだけが画家になるための方法ではありません。一人一人の人生にとって自分なりの、自分らしく画業を育てるためのカリキュラムのようなものが、その都度用意されていて、それは技術を上げることとは別物の、絵を育てる大事な要素になります。美大に受かることが目的か、画家になることが目的か、人によってはそこで自ずとカリキュラムも変わってくるのかもしれません。

歩んでいく過程で人との出会いが何より大事だと思いますし、個展をやる今でも、個展中いただいた大事なお言葉はメモして残すようにしています。

なぜ絵を描き始めたのでしょうか?

高校の時に、一生続けられることを始めて、一つそれを本気でやりたいと思ったのが、そもそものきっかけです。そこから、画集を読んだり、予備校の講習会に通ったり、美術部の仲間と当時としては労力のいるセルアニメーション映画を作ったりなどして、絵にはまっていきました。

初めは油絵をやっていましたが、大学時はアクリル、そして今は10年以上、色鉛筆を主軸に蛍光ペンや筆ペン、パステルなど複数の画材を重ねるミクストメディアの手法で描いています。

進学時にはどんな考えを持っていましたか?

当初は美大受験を目指しており、高校卒業後、予備校の昼間部に入りました。しかしちょっとしたことがきっかけで、自分が高校時代に築いたスタイルを思いきって描くことができなくなり、成績が落ちていきました。
結果的に美大受験はうまくいきませんでしたが、この時にきつい体験をしていたことで、その後の画家としての活動では、自分の表現に対してオープンに人と関わることができるようになりました。今思えばこれも学びの一つだったのかもしれません。

私は回り道はしましたが、結果的に絵を描いて個展を企画画廊で行い、それを販売するというサイクルを組み立てられるようになりました。これまでの回り道で拾ったものに無駄なものは一つもなく、全てが今現在やっていることにつながって、絵の礎となっています。

これから、どんなことをしていきたいですか?

東京を活動拠点にしている最近は、3つ4つ先まで展示や個展の予約があり、作品をひたすら作らなければいけません。

セルフマネジメントは現代の画家にとって、描くことと同等に重要です。そのため、英語や、DTPなどのデジタル技術も交えながら、東京を拠点にした日本の各地域に根差した展示や、アメリカなどの海外への展示の働きかけ、また画家としてやっていくプラットフォームの構築に力をより入れたいです。

いいと思ったことは、本当に大事なこと以外はどんどん公開し、アートに関わる人同士がお互い手助けし、ともに栄えていくことが、全体としてアートが盛んになる鍵だと思っています。

読者へのメッセージ

芸大、美大、音大に限らず、むしろそこにそれまで所属せず、アーティストとして素晴らしい作品を作っている方はたくさんいます。

アートは、『ジョジョの奇妙な冒険』でいうところの、『スタンド』のようなものだと思います。一人一人が、それぞれの性格、経験、キャラクターが反映されたその人なりのものを持ち合わせており、それをどう大事に水やりして育てるかだと思います。

※スタンド…荒木飛呂彦の漫画作品「ジョジョの奇妙な冒険」に登場する、人のエネルギーが形を持った像として見える超能力現象。持ち主の本人の個性や特技が反映され、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在。

フリーター/歌手/YouTuber

プロフィール

東京都出身。NHK東京児童合唱団に4年間在団し、二期会、新国立劇場での複数のオペラ公演や、『みんなの童謡』等テレビ番組に児童合唱として参加。その後武蔵野音楽大学附属江古田音楽教室に在籍し、オペラ『ふしぎな魔法の笛』にてタミーノを演じる。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。
現在はクラシック音楽に限らず様々なジャンルの音楽に挑戦中であり、YouTube活動を精力的に行っている。

現在、何をしていますか?

アルバイトの合間にYouTubeに歌メインで動画を投稿しています。

キャリアについて考えることを教えてください。

私のYouTubeを見て私の歌を気に入ってくれた誰かが何かしらに起用してくれないかなぁと、他力本願な気持ちで動画投稿をしています。 YouTubeは無料で世界中に自分の歌を宣伝できるので便利です。

なぜ今の活動を始めたのでしょうか?

大学卒業後、どこで何をするのか定まらないままコロナ禍に突入してしまいました。
バイトができずレッスンにも行けず、何もすることがなくて、暇つぶしにYouTube投稿を始めてみました。なんとなく声楽曲を投稿する気になれず、その時一番流行っていたポップス曲を歌って投稿しました。それが思いの外すごくすごく楽しかったのです。

幼い頃からの成り行きでクラシックの歌を勉強していましたが、昔から1番良く聞く音楽はポップスだったし、声質もこちらの方が向いてるのではないかと考えるようになりました。

今の活動を始める前は将来についてどんな考えを持っていましたか?

物心が付いた時から歌うことが大好きで、小学校の音楽の先生に勧められて児童合唱団に入りました。そこで二期会や新国立劇場のオペラ公演に児童合唱として参加する機会を何回かいただき、プロのオペラ歌手になりたいと考えるようになりました。

児童合唱団を卒団後、高校生の時に声楽を習い始め、そのまま大学でも声楽を専攻しました。大学を卒業した年の夏、YouTubeを始めるまではずっとオペラ歌手を目指す気でいました。

これから、どんなことをしていきたいですか?

音楽のジャンルはなんでもいいので、大好きな歌をどこかしらで歌って生きていけたらなぁと切に願っています。

KakinukiMaria

箏奏者

プロフィール

1998年 岡山県倉敷市生まれ。3歳より箏を、8歳より三味線を10歳より胡弓、鼓(太鼓)及び華道をはじめる。
2015年 第25回全国高校生邦楽コンクール第3位入賞。
2018年 東京オリンピック開幕2年前イベント「みんなのTokyo 2020 2Years to Go!」にて演奏。
2020年 歌舞伎座にて「千人鼓の会」ギネス記録達成。
2021年 東京藝術大学音楽学部邦楽科箏曲生田流専攻卒業。
2021年 第4回K邦楽コンクール邦楽部門、大学・一般の部で奨励賞受賞。
2021年 吉崎御坊伝統芸能新世代コンクール箏曲部門、青年の部で吉崎御坊賞受賞。

その他各地の寺院及び重要文化財にて奉納演奏を行う。これまでに川瀬白秋、深海さとみ、鈴木操秋の各氏に師事。

現在、何をしていますか?

いろんなご縁、いろんな場所で演奏をさせて頂いております!

何の予定もなくこの春に大学を卒業したのだけど、この数か月で急に、演奏につながる多くの出会いに恵まれました。例えば、先生経由でご紹介いただいた方、たまたま知り合った演奏会企画者、大学の同期、公園で友達を待っていたら出会ったジャズミュージシャン等々…!

キャリアについて考えることを教えてください。

最近少し気を付けているのは、人との出会いを大事にすることです。例えば『また会おう』みたいな、社交辞令で終わっていたやり取りも、『じゃあいつにする?』って、機会を作るように心がけています。

今の私に出来ることは時に身を任せて経験を積むことだと思っています。でも将来的には自分の道を決めてお箏を弾き続けたいので、模索中。

なぜお箏を専門にしたのでしょうか?

お箏は、母方の祖母と母がしていて、身近に他の和楽器も多い環境で育つうち、気づいたら弾いていました。

藝大に行くことを決めたのは高2の時。いわゆる進学校には通っていたけれど勉強して行きたいところは特に思いつかず、『私にできることは箏しかない!』と思ったんです。

大学時代には将来をどんな風に考えていましたか?

私は在学中から将来についてはノープランで、だけど、『ほんとに箏で生きていけるんかな?』って不安だけはありました。そう思っているうちに卒業しちゃったの!今は、いろんなご縁があって本当によかったな~と思ってます。

箏で、卒業後の活動としてメジャーなのは、コンクールに出る・教室で教える・演奏会に出るなどだと思います。私も、実績を積むために頑張ります。

  • SuzukiNorika